オかし借りないでもいい。家《うち》へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」
「御迷惑なら、しいて……」
 美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎は自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、
「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。
「降らなければ、私ちょっと出て来《き》ようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味に解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。
「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。沓脱《くつぬぎ》へ降りて、靴《くつ》をはいていると、上から美禰子が、
「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐《ひも》を結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、和土《たたき》の上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。
 二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通の女性《にょしょう》以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。
 そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。
「どこへいらっしゃるの」
「あなたはどこへ行くんです」
 二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。
「いっしょにいらっしゃい」
 二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、
「お願い」と言った。
「なんですか」
「これでお金を取ってちょうだい」
 三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座|預金通帳《あずかりきんかよいちょう》とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。
「三十円」と女が金高《きんだか》を言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津《とよつ》まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、
「丹青会《たんせいかい》の展覧会を御覧になって」と聞いた。
「まだ見ません」
「招待券《しょうたいけん》を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」
「行ってもいいです」
「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」
「原口さんが招待券をくれたんですか」
「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」
「広田先生の所で一度会いました」
「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」
「このあいだは鼓《つづみ》をならいたいと言っていました。それから――」
「それから?」
「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」
「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以
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