トいて前に蝋燭立《ろうそくたて》が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。
 すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張った椅子《いす》の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎はバイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリックの連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高い音《ね》と低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋の音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎の情緒《じょうしょ》によく合った。不意に天から二、三|粒《つぶ》落ちて来た、でたらめの雹《ひょう》のようである。
 三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。
「いらっしゃい」
 女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女は廂《ひさし》の広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。
「とうとういらしった」
 同じような親しい調子である。三四郎にはこの一言《いちげん》が非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口に笑《えみ》を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。三四郎はすぐ口を開いた。ほとんど発作《ほっさ》に近い。
「佐々木が」
「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金で細工《さいく》をした妙な形の台である。これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断《おくだん》で、じつはなんだかわからない。この不可思議の蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。
「佐々木が来ました」
「なんと言っていらっしゃいました」
「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」
「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた。
「ええ」と言って少し躊躇《ちゅうちょ》した。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、外面《そと》をながめだした。
「曇りましたね。寒いでしょう、戸外《そと》は」
「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」
「そう」と言いながら席へ帰って来た。
「じつは佐々木が金を……」と三四郎から言いだした。
「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると
「どうしておなくしになったの」と聞いた。
「馬券を買ったのです」
 女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。
「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」
「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」
「あら。だれが買ったの」
「佐々木が買ったのです」
 女は急に笑いだした。三四郎もおかしくなった。
「じゃ、あなたがお金がお入用《いりよう》じゃなかったのね。ばかばかしい」
「いることはぼくがいるのです」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「だってそれじゃおかしいわね」
「だから借りなくってもいいんです」
「なぜ。おいやなの?」
「いやじゃないが、お兄《あに》いさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」
「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」
「そうですか。じゃ借りてもいい。――
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