ら、三四郎に向かって、
「どうも妙な顔だな。いかにも生活に疲れているような顔だ。世紀末の顔だ」と批評し出した。三四郎は、この批評に対しても依然として、
「そういうわけでもないが……」を繰り返していた。三四郎は世紀末などという言葉を聞いてうれしがるほどに、まだ人工的の空気に触れていなかった。またこれを興味ある玩具《おもちゃ》として使用しうるほどに、ある社会の消息に通じていなかった。ただ生活に疲れているという句が少し気にいった。なるほど疲れだしたようでもある。三四郎は下痢《げり》のためばかりとは思わなかった。けれども大いに疲れた顔を標榜《ひょうぼう》するほど、人生観のハイカラでもなかった。それでこの会話はそれぎり発展しずに済んだ。
そのうち秋は高くなる。食欲は進む。二十三の青年がとうてい人生に疲れていることができない時節が来た。三四郎はよく出る。大学の池の周囲《まわり》もだいぶん回ってみたが、べつだんの変もない。病院の前も何べんとなく往復したが普通の人間に会うばかりである。また理科大学の穴倉へ行って野々宮君に聞いてみたら、妹はもう病院を出たと言う。玄関で会った女の事を話そうと思ったが、先方《さき》が忙しそうなので、つい遠慮してやめてしまった。今度大久保へ行ってゆっくり話せば、名前も素姓《すじょう》もたいていはわかることだから、せかずに引き取った。そうして、ふわふわして方々歩いている。田端《たばた》だの、道灌山《どうかんやま》だの、染井《そめい》の墓地だの、巣鴨《すがも》の監獄だの、護国寺《ごこくじ》だの、――三四郎は新井《あらい》の薬師《やくし》までも行った。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て野々宮君の家へ回ろうと思ったら、落合《おちあい》の火葬場《やきば》の辺で道を間違えて、高田《たかた》へ出たので、目白《めじろ》から汽車へ乗って帰った。汽車の中でみやげに買った栗《くり》を一人でさんざん食った。その余りはあくる日与次郎が来て、みんな平らげた。
三四郎はふわふわすればするほど愉快になってきた。初めのうちはあまり講義に念を入れ過ぎたので、耳が遠くなって筆記に困ったが、近ごろはたいていに聞いているからなんともない。講義中にいろいろな事を考える。少しぐらい落としても惜しい気も起こらない。よく観察してみると与次郎はじめみんな同じことである。三四郎はこれくらいでいいものだろうと
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