うしろに、自然のままにたれた濃い髪が、肩まで見える。それへ東窓をもれる朝日の光が、うしろからさすので、髪と日光《ひ》の触れ合う境のところが菫色《すみれいろ》に燃えて、生きた暈《つきかさ》をしょってる。それでいて、顔も額もはなはだ暗い。暗くて青白い。そのなかに遠い心持ちのする目がある。高い雲が空の奥にいて容易に動かない。けれども動かずにもいられない。ただなだれるように動く。女が三四郎を見た時は、こういう目つきであった。
 三四郎はこの表情のうちにものうい憂鬱《ゆううつ》と、隠さざる快活との統一を見いだした。その統一の感じは三四郎にとって、最も尊き人生の一片である。そうして一大発見である。三四郎はハンドルをもったまま、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出したままこの刹那《せつな》の感に自《みずか》らを放下《ほうげ》し去った。
「おはいりなさい」
 女は三四郎を待ち設けたように言う。その調子には初対面の女には見いだすことのできない、安らかな音色《ねいろ》があった。純粋の子供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、こうは出られない。なれなれしいのとは違う。初めから古い知り合いなのである。同時に女は肉の豊かでない頬《ほお》を動かしてにこりと笑った。青白いうちに、なつかしい暖かみができた。三四郎の足はしぜんと部屋の内へはいった。その時青年の頭のうちには遠い故郷にある母の影がひらめいた。
 戸のうしろへ回って、はじめて正面に向いた時、五十あまりの婦人が三四郎に挨拶をした。この婦人は三四郎のからだがまだ扉の陰を出ないまえから席を立って待っていたものとみえる。
「小川《おがわ》さんですか」と向こうから尋ねてくれた。顔は野々宮君に似ている。娘にも似ている。しかしただ似ているというだけである。頼まれた風呂敷包《ふろしきづつ》みを出すと、受け取って、礼を述べて、
「どうぞ」と言いながら椅子をすすめたまま、自分は寝台《ベッド》の向こう側へ回った。
 寝台の上に敷いた蒲団《ふとん》を見るとまっ白である。上へ掛けるものもまっ白である。それを半分ほど斜《はす》にはぐって、裾《すそ》のほうが厚く見えるところを、よけるように、女は窓を背にして腰をかけた。足は床に届かない。手に編針を持っている。毛糸のたま[#「たま」に傍点]が寝台の下に転がった。女の手から長い赤い糸が筋を引いている。三四郎は寝台
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