かりだ」これは男の声である。
「死んでも、そのほうがいいと思います」これは女の答である。
「もっともそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬだけの価値は十分ある」
「残酷な事をおっしゃる」
 三四郎はここで木戸をあけた。庭のまん中に立っていた会話の主は二人《ふたり》ともこっちを見た。野々宮はただ「やあ」と平凡に言って、頭をうなずかせただけである。頭に新しい茶の中折帽《なかおれぼう》をかぶっている。美禰子は、すぐ、
「はがきはいつごろ着きましたか」と聞いた。二人の今までやっていた会話はこれで中絶した。
 椽側には主人が洋服を着て腰をかけて、相変らず哲学を吹いている。これは西洋の雑誌を手にしていた。そばによし子がいる。両手をうしろに突いて、からだを空に持たせながら、伸ばした足にはいた厚い草履《ぞうり》をながめていた。――三四郎はみんなから待ち受けられていたとみえる。
 主人は雑誌をなげ出した。
「では行くかな。とうとう引っぱり出された」
「御苦労さま」と野々宮さんが言った。女は二人で顔を見合わせて、ひとに知れないような笑をもらした。庭を出る時、女が二人つづいた。
「背が高いのね」と美禰子があとから言った。
「のっぽ」とよし子が一言《ひとこと》答えた。門の側《わき》で並んだ時、「だから、なりたけ草履をはくの」と弁解をした。三四郎もつづいて庭を出ようとすると、二階の障子ががらりと開いた。与次郎が手欄《てすり》の所まで出てきた。
「行くのか」と聞く。
「うん、君は」
「行かない。菊細工なんぞ見てなんになるものか。ばかだな」
「いっしょに行こう。家《うち》にいたってしようがないじゃないか」
「今論文を書いている。大論文を書いている。なかなかそれどころじゃない」
 三四郎はあきれ返ったような笑い方をして、四人のあとを追いかけた。四人は細い横町を三分の二ほど広い通りの方へ遠ざかったところである。この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。かつて考えた三個の世界のうちで、第二第三の世界はまさにこの一団の影で代表されている。影の半分は薄黒い。半分は花野《はなの》のごとく明らかである。そうして三四郎の頭のなかではこの両方が渾然《こんぜん》として調和されている。のみならず、自分もいつのまにか、しぜんとこの経
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