田先生の陰で、先生がさっき脱ぎ捨てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為《しょい》とみえる。
「今のオルノーコの話だが、君はそそっかしいから間違えるといけないからついでに言うがね」と先生の煙がちょっととぎれた。
「へえ、伺っておきます」と与次郎が几帳面《きちょうめん》に言う。
「あの小説が出てから、サザーンという人がその話を脚本に仕組んだのが別にある。やはり同じ名でね。それをいっしょにしちゃいけない」
「へえ、いっしょにしやしません」
 洋服を畳んでいた美禰子はちょっと与次郎の顔を見た。
「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's《ピチーズ》 akin《アキン》 to《ツー》 love《ラッブ》 という句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。
「日本にもありそうな句ですな」と今度は三四郎が言った。ほかの者も、みんなありそうだと言いだした。けれどもだれにも思い出せない。ではひとつ訳してみたらよかろうということになって、四人がいろいろに試みたがいっこうにまとまらない。しまいに与次郎が、
「これは、どうしても俗謡でいかなくっちゃだめですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を提出した。
 そこで三人がぜんぜん翻訳権を与次郎に委任することにした。与次郎はしばらく考えていたが、
「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」
「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。その言い方がいかにも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。この笑い声がまだやまないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんがはいって来た。
「もうたいてい片づいたんですか」と言いながら、野々宮さんは椽側の正面の所まで来て、部屋の中にいる四人をのぞくように見渡した。
「まだ片づきませんよ」と与次郎がさっそく言う。
「少し手伝っていただきましょうか」と美禰子が与次郎に調子を合わせた。野々宮さんはにやにや笑いながら、
「だいぶにぎやかなようですね。何かおもしろい事がありますか」と言って、ぐるりと後向きに椽側へ腰をかけた。
「今ぼくが翻訳をして先生にしかられたところです」
「翻訳を? どんな翻訳ですか」
「なにつまらない――かわいそうだたほれたってことよというんです」
「へえ」と言った野々宮君は椽側で筋《すじ》かいに向き
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