くりおちついている。ほとんど与次郎の顔を見ないくらいである。三四郎は敬服した。
 台所から下女が茶を持って来る。籃を取り巻いた連中は、サンドイッチを食い出した。少しのあいだは静かであったが、思い出したように与次郎がまた広田先生に話しかけた。
「先生、ついでだからちょっと聞いておきますがさっきのなんとかベーンですね」
「アフラ・ベーンか」
「ぜんたいなんです、そのアフラ・ベーンというのは」
「英国の閨秀《けいしゅう》作家だ。十七世紀の」
「十七世紀は古すぎる。雑誌の材料にゃなりませんね」
「古い。しかし職業として小説に従事したはじめての女だから、それで有名だ」
「有名じゃ困るな。もう少し伺っておこう。どんなものを書いたんですか」
「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」
 三四郎はきれいに忘れている。先生にその梗概《こうがい》を聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷《どれい》に売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の実見譚《じっけんだん》だとして後世に信ぜられているという話である。
「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。
「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った心地《ここち》である。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。
 広田先生は例によって煙草をのみ出した。与次郎はこれを評して鼻から哲学の煙の吐くと言った。なるほど煙の出方が少し違う。悠然《ゆうぜん》として太くたくましい棒が二本穴を抜けて来る。与次郎はその煙柱《えんちゅう》をながめて、半分背を唐紙《からかみ》に持たしたまま黙っている。三四郎の目はぼんやり庭の上にある。引っ越しではない。まるで小集のていに見える。談話もしたがって気楽なものである。ただ美禰子だけが広
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