。胴に穴が開《あ》いては上がれぬ。血が通わなくなっても、脳味噌が潰《つぶ》れても、肩が飛んでも身体《からだ》が棒のように鯱張《しゃちこば》っても上がる事は出来ん。二竜山《にりゅうざん》から打出した砲煙が散じ尽した時に上がれぬばかりではない。寒い日が旅順の海に落ちて、寒い霜《しも》が旅順の山に降っても上がる事は出来ん。ステッセルが開城して二十の砲砦《ほうさい》がことごとく日本の手に帰しても上る事は出来ん。日露の講和が成就《じょうじゅ》して乃木将軍がめでたく凱旋《がいせん》しても上がる事は出来ん。百年三万六千日|乾坤《けんこん》を提《ひっさ》げて迎に来ても上がる事はついにできぬ。これがこの塹壕に飛び込んだものの運命である。しかしてまた浩さんの運命である。蠢々《しゅんしゅん》として御玉杓子《おたまじゃくし》のごとく動いていたものは突然とこの底のない坑《あな》のうちに落ちて、浮世の表面から闇《やみ》の裡《うち》に消えてしまった。旗を振ろうが振るまいが、人の目につこうがつくまいがこうなって見ると変りはない。浩さんがしきりに旗を振ったところはよかったが、壕《ほり》の底では、ほかの兵士と同じように冷たくなって死んでいたそうだ。
ステッセルは降《くだ》った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。しかし浩さんはまだ坑から上って来ない。図《はか》らず新橋へ行って色の黒い将軍を見、色の黒い軍曹を見、背《せ》の低い軍曹の御母《おっか》さんを見て涙まで流して愉快に感じた。同時に浩さんはなぜ壕から上がって来《こ》んのだろうと思った。浩さんにも御母さんがある。この軍曹のそれのように背は低くない、また冷飯草履《ひやめしぞうり》を穿《は》いた事はあるまいが、もし浩さんが無事に戦地から帰ってきて御母さんが新橋へ出迎えに来られたとすれば、やはりあの婆さんのようにぶら下がるかも知れない。浩さんもプラットフォームの上で物足らぬ顔をして御母さんの群集の中から出てくるのを待つだろう。それを思うと可哀そうなのは坑を出て来ない浩さんよりも、浮世の風にあたっている御母《おっか》さんだ。塹壕《ざんごう》に飛び込むまではとにかく、飛び込んでしまえばそれまでである。娑婆《しゃば》の天気は晴であろうとも曇であろうとも頓着《とんじゃく》はなかろう。しかし取り残された御母さんはそうは行かぬ。そら雨が降る、垂《た》れ籠《こ》めて浩さんの事を思い出す。そら晴れた、表へ出て浩さんの友達に逢《あ》う。歓迎で国旗を出す、あれが生きていたらと愚痴《ぐち》っぽくなる。洗湯《せんとう》で年頃の娘が湯を汲《く》んでくれる、あんな嫁がいたらと昔を偲《しの》ぶ。これでは生きているのが苦痛である。それも子福者であるなら一人なくなっても、あとに慰めてくれるものもある。しかし親一人子一人の家族が半分欠けたら、瓢箪《ひょうたん》の中から折れたと同じようなものでしめ括《くく》りがつかぬ。軍曹の婆さんではないが年寄りのぶら下がるものがない。御母さんは今に浩一《こういち》が帰って来たらばと、皺《しわ》だらけの指を日夜《にちや》に折り尽してぶら下がる日を待ち焦《こ》がれたのである。そのぶら下がる当人は旗を持って思い切りよく塹壕の中へ飛び込んで、今に至るまで上がって来ない。白髪《しらが》は増したかも知れぬが将軍は歓呼《かんこ》の裡《うち》に帰来《きらい》した。色は黒くなっても軍曹は得意にプラットフォームの上に飛び下りた。白髪になろうと日に焼けようと帰りさえすればぶら下がるに差《さ》し支《つか》えはない。右の腕を繃帯《ほうたい》で釣るして左の足が義足と変化しても帰りさえすれば構わん。構わんと云うのに浩さんは依然として坑《あな》から上がって来ない。これでも上がって来ないなら御母さんの方からあとを追いかけて坑の中へ飛び込むより仕方がない。
幸い今日は閑《ひま》だから浩さんのうちへ行って、久し振りに御母さんを慰めてやろう? 慰めに行くのはいいがあすこへ行くと、行くたびに泣かれるので困る。せんだってなどは一時間半ばかり泣き続けに泣かれて、しまいには大抵な挨拶《あいさつ》はし尽して、大《おおい》に応対に窮したくらいだ。その時御母さんはせめて気立ての優しい嫁でもおりましたら、こんな時には力になりますのにとしきりに嫁々と繰り返して大に余を困らせた。それも一段落告げたからもう善《よ》かろうと御免《ごめん》蒙《こうむ》りかけると、あなたに是非見て頂くものがあると云うから、何ですと聴いたら浩一の日記ですと云う。なるほど亡友の日記は面白かろう。元来日記と云うものはその日その日の出来事を書き記《し》るすのみならず、また時々刻々《じじこっこく》の心ゆきを遠慮なく吐き出すものだから、いかに親友の手帳でも断りなしに目を通す訳には行かぬが、御母さんが承諾する――否《いな》先方から依頼する以上は無論興味のある仕事に相違ない。だから御母さんに読んでくれと云われたときは大に乗気になってそれは是非見せてちょうだいとまで云おうと思ったが、この上また日記で泣かれるような事があっては大変だ。とうてい余の手際《てぎわ》では切り抜ける訳には行かぬ。ことに時刻を限ってある人と面会の約束をした刻限も逼《せま》っているから、これは追って改めて上がって緩々《ゆるゆる》拝見を致す事に願いましょうと逃げ出したくらいである。以上の理由で訪問はちと辟易《へきえき》の体《てい》である。もっとも日記は読みたくない事もない。泣かれるのも少しなら厭《いや》とは云わない。元々木や石で出来上ったと云う訳ではないから人の不幸に対して一滴の同情くらいは優《ゆう》に表し得る男であるがいかんせん性来《しょうらい》余り口の製造に念が入《い》っておらんので応対に窮する。御母さんがまああなた聞いて下さいましと啜《すす》り上げてくると、何と受けていいか分らない。それを無理矢理に体裁《ていさい》を繕《つく》ろって半間《はんま》に調子を合せようとするとせっかくの慰藉《いしゃ》的好意が水泡と変化するのみならず、時には思いも寄らぬ結果を呈出して熱湯とまで沸騰《ふっとう》する事がある。これでは慰めに行ったのか怒らせに行ったのか先方でも了解に苦しむだろう。行きさえしなければ薬も盛らん代りに毒も進めぬ訳だから危険はない。訪問はいずれその内として、まず今日は見合せよう。
訪問は見合せる事にしたが、昨日《きのう》の新橋事件を思い出すと、どうも浩さんの事が気に掛ってならない。何らかの手段で親友を弔《とむら》ってやらねばならん。悼亡《とうぼう》の句などは出来る柄《がら》でない。文才があれば平生の交際をそのまま記述して雑誌にでも投書するがこの筆ではそれも駄目と。何かないかな? うむあるある寺参りだ。浩さんは松樹山《しょうじゅざん》の塹壕《ざんごう》からまだ上《あが》って来ないがその紀念の遺髪は遥《はる》かの海を渡って駒込の寂光院《じゃっこういん》に埋葬された。ここへ行って御参りをしてきようと西片町《にしかたまち》の吾家《わがや》を出る。
冬の取《と》っ付《つ》きである。小春《こはる》と云えば名前を聞いてさえ熟柿《じゅくし》のようないい心持になる。ことに今年《ことし》はいつになく暖かなので袷羽織《あわせばおり》に綿入《わたいれ》一枚の出《い》で立《た》ちさえ軽々《かろがろ》とした快い感じを添える。先の斜《なな》めに減った杖《つえ》を振り廻しながら寂光院と大師流《だいしりゅう》に古い紺青《こんじょう》で彫りつけた額を眺《なが》めて門を這入《はい》ると、精舎《しょうじゃ》は格別なもので門内は蕭条《しょうじょう》として一塵の痕《あと》も留《と》めぬほど掃除が行き届いている。これはうれしい。肌《はだ》の細かな赤土が泥濘《ぬか》りもせず干乾《ひから》びもせず、ねっとりとして日の色を含んだ景色《けしき》ほどありがたいものはない。西片町は学者町か知らないが雅《が》な家は無論の事、落ちついた土の色さえ見られないくらい近頃は住宅が多くなった。学者がそれだけ殖《ふ》えたのか、あるいは学者がそれだけ不風流なのか、まだ研究して見ないから分らないが、こうやって広々とした境内《けいだい》へ来ると、平生は学者町で満足を表していた眼にも何となく坊主の生活が羨《うらやま》しくなる。門の左右には周囲二尺ほどな赤松が泰然として控えている。大方《おおかた》百年くらい前からかくのごとく控えているのだろう。鷹揚《おうよう》なところが頼母《たのも》しい。神無月《かんなづき》の松の落葉とか昔は称《とな》えたものだそうだが葉を振《ふる》った景色《けしき》は少しも見えない。ただ蟠《わだかま》った根が奇麗な土の中から瘤《こぶ》だらけの骨を一二寸|露《あら》わしているばかりだ。老僧か、小坊主か納所《なっしょ》かあるいは門番が凝性《こりしょう》で大方《おおかた》日に三度くらい掃《は》くのだろう。松を左右に見て半町ほど行くとつき当りが本堂で、その右が庫裏《くり》である。本堂の正面にも金泥《きんでい》の額《がく》が懸《かか》って、鳥の糞《ふん》か、紙を噛《か》んで叩《たた》きつけたのか点々と筆者の神聖を汚《け》がしている。八寸角の欅柱《けやきばしら》には、のたくった草書の聯《れん》が読めるなら読んで見ろと澄《すま》してかかっている。なるほど読めない。読めないところをもって見るとよほど名家の書いたものに違いない。ことによると王羲之《おうぎし》かも知れない。えらそうで読めない字を見ると余は必ず王羲之にしたくなる。王羲之にしないと古い妙な感じが起らない。本堂を右手に左へ廻ると墓場である。墓場の入口には化銀杏《ばけいちょう》がある。ただし化《ばけ》の字は余のつけたのではない。聞くところによるとこの界隈《かいわい》で寂光院のばけ銀杏と云えば誰も知らぬ者はないそうだ。しかし何が化《ば》けたって、こんなに高くはなりそうもない。三抱《みかかえ》もあろうと云う大木だ。例年なら今頃はとくに葉を振《ふる》って、から坊主になって、野分《のわき》のなかに唸《うな》っているのだが、今年《ことし》は全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金《こがね》の雲が、穏《おだや》かな日光を浴びて、ところどころ鼈甲《べっこう》のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊《かたま》りが風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背《そむ》いて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色《けしき》もなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳《ようえい》して遊んでいるように思われる。閑静である。――すべてのものの動かぬのが一番閑静だと思うのは間違っている。動かない大面積の中に一点が動くから一点以外の静さが理解できる。しかもその一点が動くと云う感じを過重《かちょう》ならしめぬくらい、否《いな》その一点の動く事それ自《みずか》らが定寂《じょうじゃく》の姿を帯びて、しかも他の部分の静粛なありさまを反思《はんし》せしむるに足るほどに靡《なび》いたなら――その時が一番|閑寂《かんじゃく》の感を与える者だ。銀杏《いちょう》の葉の一陣の風なきに散る風情《ふぜい》は正にこれである。限りもない葉が朝《あした》、夕《ゆうべ》を厭《いと》わず降ってくるのだから、木の下は、黒い地の見えぬほど扇形の小さい葉で敷きつめられている。さすがの寺僧《じそう》もここまでは手が届かぬと見えて、当座は掃除の煩《はん》を避けたものか、または堆《うずた》かき落葉を興ある者と眺《なが》めて、打ち棄てて置くのか。とにかく美しい。
しばらく化銀杏《ばけいちょう》の下に立って、上を見たり下を見たり佇《たたず》んでいたが、ようやくの事幹のもとを離れていよいよ墓地の中へ這入《はい》り込んだ。この寺は由緒《ゆいしょ》のある寺だそうでところどころに大きな蓮台《れ
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