り下げの被布《ひふ》姿がページの上にあらわれる。読むつもりで決心して懸《かか》った仕事だから読めん事はない。読めん事はないがページとページの間に狂言が這入《はい》る。それでも構わずどしどし進んで行くと、この狂言と本文の間が次第次第に接近して来る。しまいにはどこからが狂言でどこまでが本文か分らないようにぼうっとして来た。この夢のようなありさまで五六分続けたと思ううち、たちまち頭の中に電流を通じた感じがしてはっと我に帰った。「そうだ、この問題は遺伝で解ける問題だ。遺伝で解けばきっと解ける」とは同時に吾口を突いて飛び出した言語である。今まではただ不思議である小説的である。何となく落ちつかない、何か疑惑を晴らす工夫はあるまいか、それには当人を捕えて聞き糺《ただ》すよりほかに方法はあるまいとのみ速断して、その結果は朋友に冷かされたり、屑屋《くずや》流に駒込近傍を徘徊《はいかい》したのである。しかしこんな問題は当人の支配権以外に立つ問題だから、よし当人を尋ねあてて事実を明らかにしたところで不思議は解けるものでない。当人から聞き得る事実その物が不思議である以上は余の疑惑は落ちつきようがない。昔はこんな現象を因果《いんが》と称《とな》えていた。因果は諦《あき》らめる者、泣く子と地頭には勝たれぬ者と相場がきまっていた。なるほど因果と言い放てば因果で済むかも知れない。しかし二十世紀の文明はこの因《いん》を極《きわ》めなければ承知しない。しかもこんな芝居的夢幻的現象の因を極めるのは遺伝によるよりほかにしようはなかろうと思う。本来ならあの女を捕《つら》まえて日記中の女と同人か別物かを明《あきらか》にした上で遺伝の研究を初めるのが順当であるが、本人の居所さえたしかならぬただいまでは、この順序を逆にして、彼らの血統から吟味して、下から上へ溯《さかのぼ》る代りに、昔から今に繰《く》りさげて来るよりほかに道はあるまい。いずれにしても同じ結果に帰着する訳だから構わない。
 そんならどうして両人の血統を調べたものだろう。女の方は何者だか分らないから、先《ま》ず男の方から調べてかかる。浩さんは東京で生れたから東京っ子である。聞くところによれば浩さんの御父《おとっ》さんも江戸で生れて江戸で死んだそうだ。するとこれも江戸っ子である。御爺《おじい》さんも御爺さんの御父《おとっ》さんも江戸っ子である。すると浩さ
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