である。近辺《きんぺん》に立つ見物人は万歳万歳と両人《ふたり》を囃《はや》したてる。婆さんは万歳などには毫《ごう》も耳を借す景色はない。ぶら下がったぎり軍曹の顔を下から見上げたまま吾が子に引き摺《ず》られて行く。冷飯草履《ひやめしぞうり》と鋲《びょう》を打った兵隊靴が入り乱れ、もつれ合って、うねりくねって新橋の方へ遠《とおざ》かって行く。余は浩さんの事を思い出して悵然《ちょうぜん》と草履《ぞうり》と靴の影を見送った。

          二

 浩《こう》さん! 浩さんは去年の十一月旅順で戦死した。二十六日は風の強く吹く日であったそうだ。遼東《りょうとう》の大野《たいや》を吹きめぐって、黒い日を海に吹き落そうとする野分《のわき》の中に、松樹山《しょうじゅざん》の突撃は予定のごとく行われた。時は午後一時である。掩護《えんご》のために味方の打ち出した大砲が敵塁の左突角《ひだりとっかく》に中《あた》って五丈ほどの砂煙《すなけむ》りを捲《ま》き上げたのを相図に、散兵壕《さんぺいごう》から飛び出した兵士の数は幾百か知らぬ。蟻《あり》の穴を蹴返《けかえ》したごとくに散り散りに乱れて前面の傾斜を攀《よ》じ登る。見渡す山腹は敵の敷いた鉄条網で足を容《い》るる余地もない。ところを梯子《はしご》を担《にな》い土嚢《どのう》を背負《しょ》って区々《まちまち》に通り抜ける。工兵の切り開いた二間に足らぬ路は、先を争う者のために奪われて、後《あと》より詰めかくる人の勢に波を打つ。こちらから眺《なが》めるとただ一筋の黒い河が山を裂いて流れるように見える。その黒い中に敵の弾丸は容赦なく落ちかかって、すべてが消え失せたと思うくらい濃《こ》い煙が立ち揚《あが》る。怒《いか》る野分は横さまに煙りを千切《ちぎ》って遥《はる》かの空に攫《さら》って行く。あとには依然として黒い者が簇然《そうぜん》と蠢《うご》めいている。この蠢めいているもののうちに浩さんがいる。
 火桶《ひおけ》を中に浩さんと話をするときには浩さんは大きな男である。色の浅黒い髭《ひげ》の濃い立派な男である。浩さんが口を開いて興に乗った話をするときは、相手の頭の中には浩さんのほか何もない。今日《きょう》の事も忘れ明日《あす》の事も忘れ聴《き》き惚《ほ》れている自分の事も忘れて浩さんだけになってしまう。浩さんはかように偉大な男である。どこへ出し
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