表するのみならず、広く人類一般の精神を代表している。人類の精神は算盤《そろばん》で弾《はじ》けず、三味線に乗らず、三|頁《ページ》にも書けず、百科全書中にも見当らぬ。ただこの兵士らの色の黒い、みすぼらしいところに髣髴《ほうふつ》として揺曳《ようえい》している。出山《しゅっせん》の釈迦《しゃか》はコスメチックを塗ってはおらん。金の指輪も穿《は》めておらん。芥溜《ごみだめ》から拾い上げた雑巾《ぞうきん》をつぎ合せたようなもの一枚を羽織っているばかりじゃ。それすら全身を掩《おお》うには足らん。胸のあたりは北風の吹き抜けで、肋骨《ろっこつ》の枚数は自由に読めるくらいだ。この釈迦が尊《たっと》ければこの兵士も尊《たっ》といと云わねばならぬ。昔《むか》し元寇《げんこう》の役《えき》に時宗《ときむね》が仏光国師《ぶっこうこくし》に謁《えっ》した時、国師は何と云うた。威《い》を振《ふる》って驀地《ばくち》に進めと吼《ほ》えたのみである。このむさくろしき兵士らは仏光国師の熱喝《ねっかつ》を喫《きっ》した訳でもなかろうが驀地に進むと云う禅機《ぜんき》において時宗と古今《ここん》その揆《き》を一《いつ》にしている。彼らは驀地に進み了して曠如《こうじょ》と吾家《わがや》に帰り来りたる英霊漢である。天上を行き天下《てんげ》を行き、行き尽してやまざる底《てい》の気魄《きはく》が吾人の尊敬に価《あたい》せざる以上は八荒《はっこう》の中《うち》に尊敬すべきものは微塵《みじん》ほどもない。黒い顔! 中には日本に籍があるのかと怪まれるくらい黒いのがいる。――刈り込まざる髯! 棕櫚箒《しゅろぼうき》を砧《きぬた》で打ったような髯――この気魄《きはく》は這裏《しゃり》に磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ほうはく》として蟠《わだか》まり※[#「さんずい+亢」、第3水準1−86−55]瀁《こうよう》として漲《みなぎ》っている。
兵士の一隊が出てくるたびに公衆は万歳を唱《とな》えてやる。彼らのあるものは例の黒い顔に笑《えみ》を湛《たた》えて嬉《うれ》し気《げ》に通り過ぎる。あるものは傍目《わきめ》もふらずのそのそと行く。歓迎とはいかなる者ぞと不審気に見える顔もたまには見える。またある者は自己の歓迎旗の下に立って揚々《ようよう》と後《おく》れて出る同輩を眺《なが》めている。あるいは石段を下《くだ》る
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