しわざ》だ。と云って案内を乞うて這入るのはなおいやだ。この邸内の者共の御世話にならず、しかもわが人格を傷《きずつ》けず正々堂々と見なくては心持ちがわるい。そうするには高い山から見下《みおろ》すか、風船の上から眺《なが》めるよりほかに名案もない。しかし双方共当座の間に合うような手軽なものとは云えぬ。よし、その儀ならこっちにも覚悟がある。高等学校時代で練習した高飛の術を応用して、飛び上がった時にちょっと見てやろう。これは妙策だ、幸い人通りもなし、あったところが自分で自分が飛び上るに文句をつけられる因縁《いんねん》はない。やるべしと云うので、突然双脚に精一杯の力を込めて飛び上がった。すると熟練の結果は恐ろしい者で、かの土塀の上へ首が――首どころではない肩までが思うように出た。この機をはずすととうてい目的は達せられぬと、ちらつく両眼を無理に据《す》えて、ここぞと思うあたりを瞥見《べっけん》すると女が四人でテニスをしていた。余が飛び上がるのを相図に四人が申し合せたようにホホホと癇《かん》の高い声で笑った。おやと思ううちにどたりと元のごとく地面の上に立った。
 これは誰が聞いても滑稽《こっけい》である。冒険の主人公たる当人ですらあまり馬鹿気ているので今日《こんにち》まで何人《なんびと》にも話さなかったくらい自《みずか》ら滑稽と心得ている。しかし滑稽とか真面目《まじめ》とか云うのは相手と場合によって変化する事で、高飛びその物が滑稽とは理由のない言草《いいぐさ》である。女がテニスをしているところへこっちが飛び上がったから滑稽にもなるが、ロメオがジュリエットを見るために飛び上ったって滑稽にはならない。ロメオくらいなところでは未《ま》だ滑稽を脱せぬと云うなら余はなお一歩を進める。この凱旋《がいせん》の将軍、英名|嚇々《かくかく》たる偉人を拝見するために飛び上がるのは滑稽ではあるまい。それでも滑稽か知らん? 滑稽だって構うものか。見たいものは、誰が何と云っても見たいのだ。飛び上がろう、それがいい、飛び上がるにしくなしだと、とうとうまた先例によって一蹴《いっしゅう》を試むる事に決着した。先《ま》ず帽子をとって小脇に抱《か》い込む。この前は経験が足りなかったので足が引力作用で地面へ引き着けられた勢に、買いたての中折帽《なかおれぼう》が挨拶《あいさつ》もなく宙返りをして、一間ばかり向《むこう》
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