うと思って、じゃあいたへやへ案内してくれと言うと、番頭はまたおじぎを一つして、まことにお気の毒さまでございますが、招魂祭でどのへやもふさがっておりますのでとていねいに断わった。自分は傘《かさ》を突いたまましばらく玄関の前に立っていた。正式にいうと、あらかじめ重吉に通知をしたうえ、なおH着の時間を電報で言ってやるべきであるが、なるべくお互いの面倒《めんどう》を省いて簡略に事を済ますのが当世だと思って、わざと前触れなしに重吉を襲ったのであるが、いよいよ来てみると、自分のやり口はただの不注意から、出る不都合な結果を、自分のうえに投げかけたと同じことになってしまった。
 自分はHにどんな宿屋が何軒あるかまるで知らなかったが、この旅館がそのうちでいちばんよいのだということだけは、かねて受け取った重吉の手紙によって心得ていた。なるほど奥をのぞいてみると、廊下が折れ曲がったり、中庭の先に新しい棟《むね》が見えたりして、さも広そうでかつ物綺麗《ものぎれい》であった。自分は番頭にどこか都合ができるだろうと言った。番頭は当惑したような顔をして、しばらく考えていたが、はなはだ見苦しい所で、一夜泊《いちやどま》りのお客様にはお気の毒でございますが、佐野さんのいらしったお座敷なら、どうかいたしましょうと答えた。その口ぶりから察すると、なんでもよほどきたない所らしいので、また少し躊躇《ちゅうちょ》しかけたが、もとよりこの地へ来て体裁を顧みる必要もない身だから、一晩や二晩はどんなへやで明かしたってかまわないという気になって、このあいだまで重吉のいたというそのへやへ案内してもらった。
 へやは第一の廊下を右へ折れて、そこの縁側から庭下駄《にわげた》をはいて、二足三足たたきの上を渡らなければはいれない代わりにどことも続いていないところが、まるで一軒立ちの観を与えた。天井の低いのや柱の細いのが、さも茶がかった空気を作るとともに、いかにも湿っぽい陰気な感じがした。そうして畳といわず襖《ふすま》といわずはなはだしく古びていた。向こうの藤棚《ふじだな》の陰に見える少し出張《でば》った新築の中二階などとくらべると、まるで比較にならないほど趣が違っていた。
 「こんな所にはいっていたのか」と思いながら、自分は茶をのんでしばらく座敷を見回していたが、やがて硯《すずり》を借りて、重吉の所へやる手紙を書いた。ただ簡単
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