ど気にもかからない、今にどっちからか動きだすだろう、万事はその時のことと覚悟をきめていたが、妻は女だけに心配して、このあいだも長い手紙を重吉にやって、いったいあのことはどうなさるつもりですかと尋ねたら、重吉は万事よろしく願いますと例のとおりの返事をよこした。そのまえ聞き合わせた時には、私はまだ道楽を始めませんから、だいじょうぶですというはがきが来た。妻はそのはがきを自分のところへ持ってきて、重吉さんもずいぶんのんきね、まだ始めませんって、いまに始められたひにゃ、だいじょうぶでもなんでもないじゃありませんか、冗談じゃあるまいし、と少しおこったような語気をもらした。自分にも重吉の用いたこのまだという字がいかにもおかしく思われた。妻に、当人本気なのかなと言ったくらいである。
妻が評したごとく、こういうふうに、いつまでも、紙鳶《たこ》が木の枝に引っかかって中途から揚がっているようなありさまでおしてゆかれては間へはいった自分たちの責任としても、しまいには放っておかれなくなるのは明らかだから、今度の旅行を幸い、帰りにHへ寄って、いわゆる「あのこと」をもっとはっきりかたづけてきたらよかろうという妻の意見に従うことにきめて家を出た。
四
汽車中では重吉の地方生活をいろいろに想像する暇もあったが、目的地へ下りるやいなや、すぐ当用のために忙殺《ぼうさつ》されて、「あのこと」などはほとんど考えもしなかった。ようよう四、五日かかって、一段落がついた時、自分はまた汽車に揺られながら、まだ見ないHの町や、その町の中にある重吉の下宿している旅館などを、頭の奥に漂う画《え》のようにながめた。もとよりものずきのさせるわざだから、煙草《たばこ》の煙《けぶり》に似て、取り留めることのできないうちに、また煙草の煙に似た淡い愉快があった。とかくするうちに汽車はとうとうHへ着いた。
自分はすぐ俥《くるま》を雇って、重吉のいる宿屋の玄関へ乗りつけた。番頭にここに佐野という人が下宿しているはずだがと聞くと番頭はおじぎを二つばかりして、佐野さんは先だってまでおいでになりましたが、ついこのあいだお引き移りになりましたと言う。けしからんことだと思いながらも、なお引っ越し先の模様を尋ねてみると、とうてい自分などの行って、一晩でも二晩でもやっかいになれそうな所ではないらしい。いっそここへ泊まるほうが楽だろ
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