日来の手痛き経験と精緻《せいち》なる思索とによって余は下の結論に到着した
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自転車の鞍《くら》とペダルとは何も世間体を繕《つくろ》うために漫然と附着しているものではない、鞍は尻をかけるための鞍にしてペダルは足を載せかつ踏みつけると回転するためのペダルなり、ハンドルはもっとも危険の道具にして、一度《ひとた》びこれを握るときは人目を眩《くらま》せしむるに足る目勇《めざま》しき働きをなすものなり
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 かく漆桶《しっとう》を抜くがごとく自転悟を開きたる余は今例の監督官及びその友なる貴公子某伯爵と共に※[#「金+(鹿/れっか)」、第3水準1−93−42]《くつわ》を連《つら》ねて「クラパムコンモン」を横ぎり鉄道馬車の通う大通りへ曲らんとするところだと思いたまえ、余の車は両君の間に介在して操縦すでに自由ならず、ただ前へ出られるばかりと思いたまえ、しかるに出られべき一方口が突然|塞《ふさが》ったと思いたまえ、すなわち横ぎりにかかる塗炭《とたん》に右の方より不都合なる一輛《いちりょう》の荷車が御免《ごめん》よとも何とも云わず傲然《ごうぜん》として我前を通ったのさ、今までの態度を維持すれば衝突するばかりだろう、余の主義として衝突はこちらが勝つ場合についてのみあえてするが、その他負色の見えすいたような衝突になるといつでも御免蒙るのが吾家伝来の憲法である、さるによってこの尨大《ぼうだい》なる荷車と老朽悲鳴をあげるほどの吾が自転車との衝突は、おやじの遺言としても避けねばならぬ、と云って左右へよけようとすると御両君のうちいずれへか衝突の尻をもって行かねばならん、もったいなくも一人は伯爵の若殿様で、一人は吾が恩師である、さような無礼な事は平民たる我々|風情《ふぜい》のすまじき事である、のみならず捕虜の分際として推参な所作と思わるべし、孝ならんと欲すれば礼ならず、礼ならんと欲すれば孝ならず、やむなくんば退却か落車の二あるのみと、ちょっとの間に相場がきまってしまった、この時事に臨んでかつて狼狽《ろうばい》したる事なきわれつらつら思うよう、できさえすれば退却も満更《まんざら》でない、少なくとも落車に優《まさ》ること万々なりといえども、悲夫|逆艪《さかろ》の用意いまだ調《ととの》わざる今日の時勢なれば、エー仕方がない思い切って落車にしろ、と両車の間に堂と落つ、折しも余を去る事二間ばかりのところに退屈そうに立っていた巡査――自転車の巡査におけるそれなお刺身のツマにおけるがごときか、何ぞそれ引き合に出るのはなはだしき――このツマ的巡査が声を揚げてアハ、アハ、アハ、と三度笑った。その笑い方苦笑にあらず、冷笑にあらず、微笑にあらず、カンラカラカラ笑にあらず、全くの作り笑なり、人から頼まれてする依托笑なり、この依托笑をするためにこの巡査はシックスペンスを得たか、ワン・シリングを得たか、遺憾《いかん》ながらこれを考究する暇がなかった、
 へんツマ巡査などが笑ったってとすぐさま御両君の後を慕って馳《か》け出す、これが巡公でなくって先日の御娘さんだったらやはりすぐさま馳け出されるかどうだかの問題はいざとならなければ解釈がつかないから質問しない方がいいとして先へ進む、さて両君はこの辺の地理不案内なりとの口実をもって覚束《おぼつか》なき余に先導たるべしとの厳命を伝えた、しかるに案内には詳《くわ》しいが自転車には毫《ごう》も詳しくないから、行こうと思う方へは行かないで曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう、ここにおいてか同じ所へ何返《なんべん》も出て来る、始めの内は何とかかんとかごまかしていたが、そうは持ち切れるものでない、今度は違った方へ行こうとの御意である、よろしいと口には云ったようなものの、ままにならぬは浮世の習、容易にそっちの方角へ曲らない、道幅三分の二も来た頃、やっとの思でハンドルをギューッと捩《ねじ》ったら、自転車は九十度の角度を一どきに廻ってしまった、その急廻転のために思いがけなき功名を博し得たと云う御話しは、明日の前講になかという価値もないから、すぐ話してしまう、この時まで気がつかなかったがこの急劇なる方向転換の刹那《せつな》に余と同じ方角へ向けて余に尾行して来た一人のサイクリストがあった、ところがこの不意撃《ふいうち》に驚いて車をかわす暇もなくもろくも余の傍で転がり落ちた、後で聞けば、四ツ角を曲る時にはベルを鳴すか片手をあげるか一通りの挨拶《あいさつ》をするのが礼だそうだが、落天の奇想を好む余はさような月並主義を採《と》らない、いわんやベルを鳴したり手を挙《あ》げたり、そんな面倒な事をする余裕はこの際少しもなきにおいてをやだ、ここにおいてかこのダンマリ転換を遂行するのも余にとっては万やむをえざるに出たもので、余のあ
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