方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。
 これと同じような意味で、今申し上げた権力というものを吟味《ぎんみ》してみると、権力とは先刻《さっき》お話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧《お》しつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。
 権力に次ぐものは金力です。これもあなたがたは貧民よりも余計に所有しておられるに相違ない。この金力を同じくそうした意味から眺めると、これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑《ゆうわく》の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。
 してみると権力と金力とは自分の個性を貧乏人《びんぼうにん》より余計に、他人の上に押し被《かぶ》せるとか、または他人をその方面に誘《おび》き寄せるとかいう点において、大変|便宜《べんぎ》な道具だと云わなければなりません。こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。先刻申した個性はおもに学問とか文芸とか趣味《しゅみ》とかについて自己の落ちつくべき所まで行って始めて発展するようにお話し致したのですが、実をいうとその応用ははなはだ広いもので、単に学芸だけにはとどまらないのです。私の知っている兄弟で、弟の方は家に引込《ひっこ》んで書物などを読む事が好きなのに引《ひ》き易《か》えて、兄はまた釣道楽《つりどうらく》に憂身《うきみ》をやつしているのがあります。するとこの兄が自分の弟の引込思案でただ家にばかり引籠《ひきこも》っているのを非常に忌《い》まわしいもののように考えるのです。必竟《ひっきょう》は釣をしないからああいう風に厭世的《えんせいてき》になるのだと合点《がてん》して、むやみに弟を釣に引張り出そうとするのです。弟はまたそれが不愉快でたまらないのだけれども、兄が高圧的に釣竿《つりざお》を担がしたり、魚籃《びく》を提げさせたりして、釣堀へ随行を命ずるものだから、まあ目を瞑《つむ》ってくっついて行って、気味の悪い鮒《ふな》などを釣っていやいや帰ってくるのです。それがために兄の計画通り弟の性質が直ったかというと、けっしてそうではない、ますますこの釣というものに対して反抗心を起してくるようになります。つまり釣と兄の性質とはぴたりと合ってその間に何の隙間もないのでしょうが、それはいわゆる兄の個性で、弟とはまるで交渉《こうしょう》がないのです。これはもとより金力の例ではありません、権力の他を威圧する説明になるのです。兄の個性が弟を圧迫《あっぱく》して無理に魚を釣らせるのですから。もっともある場合には、――例えば授業を受ける時とか、兵隊になった時とか、また寄宿舎でも軍隊生活を主位におくとか――すべてそう云った場合には多少この高圧的手段は免《まぬ》かれますまい。しかし私はおもにあなたがたが一本立《いっぽんだち》になって世間へ出た時の事を云っているのだからそのつもりで聴いて下さらなくては困ります。
 そこで前申した通り自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間に引《ひ》き摺《ず》り込んでやろうという気になる。その時権力があると前云った兄弟のような変な関係が出来上るし、また金力があると、それをふりまいて、他《ひと》を自分のようなものに仕立上げようとする。すなわち金を誘惑の道具として、その誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起るのです。
 それで私は常からこう考えています。第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進《まいしん》しなければ一生の不幸であると。しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向《けいこう》を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。自分は天性右を向いているから、あいつが左を向いているのは怪《け》しからんというのは不都合じゃないかと思うのです。もっとも複雑な分子の寄って出来上った善悪とか邪正《じゃせい》とかいう問題になると、少々込み入った解剖《かいぼう》の力を借りなければ何とも申されませんが、そうした問題の関係して来ない場合もしくは関係しても面倒《めんどう》でない場合には、自分が他《ひと》から自由を享有《きょうゆう》している限り、他にも同程度の自由を与えて、同等に取り扱《あつか》わなければならん事と信ずるよりほかに仕方がないのです。
 近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴《ふちょう》に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己《おの》れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害《ぼうがい》してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。
 元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上からあなた方を見下して、一時間なり二時間なり私の云う事を静粛《せいしゅく》に聴いていただく権利を保留する以上、私の方でもあなた方を静粛にさせるだけの説を述べなければすまないはずだと思います。よし平凡《へいぼん》な講演をするにしても、私の態度なり様子なりが、あなたがたをして礼を正さしむるだけの立派さをもっていなければならんはずのものであります。ただ私はお客である、あなたがたは主人である、だからおとなしくしなくてはならない、とこう云おうとすれば云われない事もないでしょうが、それは上面《うわつら》の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もない云わば因襲《いんしゅう》といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を挙げてみますと、あなたがたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。しかし叱りっ放しの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折って教えてくれるにきまっています。叱る権利をもつ先生はすなわち教える義務をももっているはずなのですから。先生は規律をただすため、秩序《ちつじょ》を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代りその権利と引き離す事のできない義務も尽《つく》さなければ、教師の職を勤め終《おお》せる訳に行きますまい。
 金力についても同じ事であります。私の考《かんがえ》によると、責任を解しない金力家は、世の中にあってならないものなのです。その訳を一口にお話しするとこうなります。金銭というものは至極重宝なもので、何へでも自由自在に融通《ゆうずう》が利く。たとえば今私がここで、相場をして十万円|儲《もう》けたとすると、その十万円で家屋を立てる事もできるし、書籍《しょせき》を買う事もできるし、または花柳《かりゅう》社界を賑《にぎ》わす事もできるし、つまりどんな形にでも変って行く事ができます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。すなわちそれをふりまいて、人間の徳義心を買い占《し》める、すなわちその人の魂《たましい》を堕落《だらく》させる道具とするのです。相場で儲《もう》けた金が徳義的|倫理的《りんりてき》に大きな威力をもって働らき得るとすれば、どうしても不都合な応用と云わなければならないかと思われます。思われるのですけれども、実際その通りに金が活動する以上は致し方がない。ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗《ふはい》を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任がついて廻らなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響《えいきょう》があると呑み込むだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中にすまないと云うのです。いな自分自身にもすむまいというのです。
 今までの論旨《ろんし》をかい摘《つま》んでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂《しと》げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴《ともな》う責任を重《おもん》じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
 これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一|遍《ぺん》云い換《か》えると、この三者を自由に享《う》け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他《ひと》を妨害する、権力を用いようとすると、濫用《らんよう》に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈《てい》するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。
 話が少し横へそれますが、ご存じの通り英吉利《イギリス》という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英吉利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌《きら》いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などはとうてい比較《ひかく》にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。 England expects every man to do his duty といった有名なネルソンの言葉はけっして当座限りの意味のものではないのです。彼らの自由と表裏して発達して来た深い根柢《こんてい》をもった思想に違《ちがい》ないのです。
 彼らは不平があるとよく示威運動をやります。しかし政府はけっして干渉《かんしょう》がましい事をしません。黙って放っておくのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑《めいわく》になるような乱暴は働かないのです。近頃女権拡張論者と云ったようなものがむやみに狼藉《ろうぜき》をするように新聞などに見えていますが、あれはまあ例外です。例外にしては数が多過ぎると云われればそれまでですが、どうも例外と見るよりほかに仕方がないようです。嫁《よめ》に行かれないとか、職業が見つからないとか、または昔しから養成された、女を尊敬するという気風につけ込むのか
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