釣と兄の性質とはぴたりと合ってその間に何の隙間もないのでしょうが、それはいわゆる兄の個性で、弟とはまるで交渉《こうしょう》がないのです。これはもとより金力の例ではありません、権力の他を威圧する説明になるのです。兄の個性が弟を圧迫《あっぱく》して無理に魚を釣らせるのですから。もっともある場合には、――例えば授業を受ける時とか、兵隊になった時とか、また寄宿舎でも軍隊生活を主位におくとか――すべてそう云った場合には多少この高圧的手段は免《まぬ》かれますまい。しかし私はおもにあなたがたが一本立《いっぽんだち》になって世間へ出た時の事を云っているのだからそのつもりで聴いて下さらなくては困ります。
そこで前申した通り自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間に引《ひ》き摺《ず》り込んでやろうという気になる。その時権力があると前云った兄弟のような変な関係が出来上るし、また金力があると、それをふりまいて、他《ひと》を自分のようなものに仕立上げようとする。すなわち金を誘惑の道具として、その誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起るのです。
それで私は常からこう考えています。第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進《まいしん》しなければ一生の不幸であると。しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向《けいこう》を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。自分は天性右を向いているから、あいつが左を向いているのは怪《け》しからんというのは不都合じゃないかと思うのです。もっとも複雑な分子の寄って出来上った善悪とか邪正《じゃせい》とかいう問題になると、少々込み入った解剖《かいぼう》の力を借りなければ何とも申されませんが、そうした問題の関係して来ない場合もしくは関係しても面倒《めんどう》でない場合には、自分が他《ひと》から自由を享有《きょうゆう》している限り、他にも同程度の自由を与えて、同等に取り扱《あつか》わなければならん事と信ずるよりほかに仕方がないのです。
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴《ふちょう》に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己《おの》れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害《ぼうがい》してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。
元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上からあなた方を見下して、一時間なり二時間なり私の云う事を静粛《せいしゅく》に聴いていただく権利を保留する以上、私の方でもあなた方を静粛にさせるだけの説を述べなければすまないはずだと思います。よし平凡《へいぼん》な講演をするにしても、私の態度なり様子なりが、あなたがたをして礼を正さしむるだけの立派さをもっていなければならんはずのものであります。ただ私はお客である、あなたがたは主人である、だからおとなしくしなくてはならない、とこう云おうとすれば云われない事もないでしょうが、それは上面《うわつら》の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もない云わば因襲《いんしゅう》といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を挙げてみますと、あなたがたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。しかし叱りっ放しの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折って教えてくれるにきまっています。叱る権利をもつ先生はすなわち教える義務をももっているはずなのですから。先生は規律をただすため、秩序《ちつじょ》を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代りその権利と引き離す事のできない義務も尽《つく》さなければ、教師の職を勤め終《おお》せる訳に行きますまい。
金力についても同じ
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