スピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並《なら》べてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措《お》いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解《わか》るはずがありません。それなら自力でそれを窮《きわ》め得るかと云うと、まあ盲目《めくら》の垣覗《かきのぞ》きといったようなもので、図書館に入って、どこをどううろついても手掛《てがかり》がないのです。これは自力の足りないばかりでなくその道に関した書物も乏《とぼ》しかったのだろうと思います。とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶《はんもん》は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。
私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にされてしまったのです。幸に語学の方は怪《あや》しいにせよ、どうかこうかお茶を濁《にご》して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚《くうきょ》でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮《に》え切らない漠然《ばくぜん》たるものが、至る所に潜《ひそ》んでいるようで堪《た》まらないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事がすでに面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙《すき》があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。
私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧《きり》の中に閉じ込められた孤独《こどく》の人間のように立ち竦《すく》んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射《さ》して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条《ひとすじ》で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢《ふくろ》の中に詰《つ》められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐《きり》さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥《あせ》り抜《ぬ》いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝《いんうつ》な日を送ったのであります。
私はこうした不安を抱《いだ》いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越《ひっこ》し、また同様の不安を胸の底に畳《たた》んでついに外国まで渡《わた》ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然《いぜん》として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦《ロンドン》中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足《たし》にはならないのだと諦《あきら》めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念《がいねん》を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟《さと》ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍《うきぐさ》のように、そこいらをでたらめに漂《ただ》よっていたから、駄目《だめ》であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似《ひとまね》を指すのです。一口にこう云ってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと不審《ふしん》がられるかも知れませんが、事実はけっしてそうではないのです。近頃|流行《はや》るベルグソンでもオイケンでもみんな向《むこ》うの人がとやかくいうので日本人もその尻馬《しりうま》に乗って騒《さわ》ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従《もうじゅう》して威張《いば》ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴《ふいちょう》して得意がった男が比々|皆
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