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近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴《ふちょう》に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己《おの》れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害《ぼうがい》してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。
元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上からあなた方を見下して、一時間なり二時間なり私の云う事を静粛《せいしゅく》に聴いていただく権利を保留する以上、私の方でもあなた方を静粛にさせるだけの説を述べなければすまないはずだと思います。よし平凡《へいぼん》な講演をするにしても、私の態度なり様子なりが、あなたがたをして礼を正さしむるだけの立派さをもっていなければならんはずのものであります。ただ私はお客である、あなたがたは主人である、だからおとなしくしなくてはならない、とこう云おうとすれば云われない事もないでしょうが、それは上面《うわつら》の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もない云わば因襲《いんしゅう》といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を挙げてみますと、あなたがたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。しかし叱りっ放しの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折って教えてくれるにきまっています。叱る権利をもつ先生はすなわち教える義務をももっているはずなのですから。先生は規律をただすため、秩序《ちつじょ》を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代りその権利と引き離す事のできない義務も尽《つく》さなければ、教師の職を勤め終《おお》せる訳に行きますまい。
金力についても同じ
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