ては教場へ出られないと云いますから、私はまだ事のきまらない先に、モーニングを誂《あつ》らえてしまったのです。そのくせ学習院とはどこにある学校かよく知らなかったのだから、すこぶる変なものです。さていよいよモーニングが出来上《できあが》ってみると、あに計らんやせっかく頼《たの》みにしていた学習院の方は落第と事がきまったのです。そうしてもう一人の男が英語教師の空位を充たす事になりました。その人は何という名でしたか今は忘れてしまいました。別段|悔《くや》しくも何ともなかったからでしょう。何でも米国帰りの人とか聞いていました。――それで、もしその時にその米国帰りの人が採用されずに、この私がまぐれ当りに学習院の教師になって、しかも今日まで永続していたなら、こうした鄭重《ていちょう》なお招きを受けて、高い所からあなたがたにお話をする機会もついに来なかったかも知れますまい。それをこの春から十一月までも待って聴いて下さろうというのは、とりも直さず、私が学習院の教師に落第して、あなたがたから目黒の秋刀魚のように珍らしがられている証拠《しょうこ》ではありませんか。
私はこれから学習院を落第してから以後の私について少々|申上《もうしあ》げようと思います。これは今までお話をして来た順序だからという意味よりも、今日の講演に必要な部分だからと思って聴いていただきたいのです。
私は学習院は落第したが、モーニングだけは着ていました。それよりほかに着るべき洋服は持っていなかったのだから仕方がありません。そのモーニングを着てどこへ行ったと思いますか? その時分は今と違《ちが》って就職の途《みち》は大変楽でした。どちらを向いても相当の口は開いていたように思われるのです。つまりは人が払底《ふってい》なためだったのでしょう。私のようなものでも高等学校と、高等|師範《しはん》からほとんど同時に口がかかりました。私は高等学校へ周旋《しゅうせん》してくれた先輩に半分|承諾《しょうだく》を与えながら、高等師範の方へも好《い》い加減な挨拶《あいさつ》をしてしまったので、事が変な具合にもつれてしまいました。もともと私が若いから手ぬかりやら、不行届《ふゆきとどき》がちで、とうとう自分に祟《たた》って来たと思えば仕方がありませんが、弱らせられた事は事実です。私は私の先輩なる高等学校の古参の教授の所へ呼びつけられて、こっち
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