行こう」
 こう云った彼は、それ以後禅のぜの字も考えなくなったのです。善も投げ悪も投げ、父母《ちちはは》の生れない先の姿も投げ、いっさいを放下《ほうげ》し尽してしまったのです。それからある閑寂《かんじゃく》な所を選んで小さな庵《いおり》を建てる気になりました。彼はそこにある草を芟《か》りました。そこにある株を掘り起しました。地ならしをするために、そこにある石を取って除《の》けました。するとその石の一つが竹藪《たけやぶ》にあたって戞然《かつぜん》と鳴りました。彼はこの朗《ほがら》かな響を聞いて、はっと悟《さと》ったそうです。そうして一撃《いちげき》に所知《しょち》を亡《うしな》うと云って喜んだといいます。
「どうかして香厳になりたい」と兄さんが云います。兄さんの意味はあなたにもよく解るでしょう。いっさいの重荷を卸《おろ》して楽《らく》になりたいのです。兄さんはその重荷を預かって貰う神をもっていないのです。だから掃溜《はきだめ》か何かへ棄《す》ててしまいたいと云うのです。兄さんは聡明な点においてよくこの香厳《きょうげん》という坊さんに似ています。だからなおのこと香厳が羨《うらや》ましいのでしょう。
 兄さんの話は西洋人の別荘や、ハイカラな楽器とは、全く縁の遠いものでした。なぜ兄さんが暗い石段の上で、磯《いそ》の香《か》を嗅《か》ぎながら、突然こんな話をし出したか、それは私には解りません。兄さんの話が済んだ頃はピアノの音ももう聞こえませんでした。潮《しお》に近いためか、夜露のせいか、浴衣《ゆかた》が湿《しめ》っぽくなっていました。私は兄さんを促《うなが》してまたもとの道へ引き返しました。往来へ出た時、私は行きつけの菓子屋へ寄って饅頭《まんじゅう》を買いました。それを食いながら暗い中を黙って宅《うち》まで帰って来ました。留守《るす》を頼んでおいた爺《じい》さんの所の子供は、蚊《か》に喰われるのも構わずぐうぐう寝ていました。私は饅頭の余りをやって、すぐ子供を帰してやりました。

        五十一

 昨日《きのう》の朝食事をした時、飯櫃《めしびつ》を置いた位地《いち》の都合から、私が兄さんの茶碗を受けとって、一膳目《いちぜんめ》の御飯をよそってやりますと、兄さんはまたお貞さんの名を私の耳に訴えました。お貞さんがまだ嫁に行かないうちは、ちょうど今私がしたように、始終《しじゅう》兄さんのお給仕をしたものだそうですね。昨夜《ゆうべ》は性格の点からお貞さんに比較され、今朝はまたお給仕の具合で同じお貞さんにたとえられた私は、つい兄さんに向って質問を掛けて見る気になりました。
「君はそのお貞さんとかいう人と、こうしていっしょに住んでいたら幸福になれると思うのか」
 兄さんは黙って箸《はし》を口へ持って行きました。私は兄さんの態度から推《お》して、おおかた返事をするのが厭《いや》なんだろうと考えたので、それぎり後《あと》を推《お》しませんでした。すると兄さんの答が、御飯を二口三口|嚥《の》み下《くだ》したあとで、不意に出て来ました。
「僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」
 兄さんの言葉はいかにも論理的に終始を貫いて真直《まっすぐ》に見えます。けれども暗い奥には矛盾がすでに漂《ただ》よっています。兄さんは何にも拘泥《こうでい》していない自然の顔をみると感謝したくなるほど嬉《うれ》しいと私に明言した事があるのです。それは自分が幸福に生れた以上、他《ひと》を幸福にする事もできると云うのと同じ意味ではありませんか。私は兄さんの顔を見てにやにやと笑いました。兄さんはそうなるとただではすまされない男です。すぐ食いついて来ます。
「いや本当にそうなのだ。疑ぐられては困る。実際僕の云った事は云った事で、云わない事は云わない事なんだから」
 私は兄さんに逆《さか》らいたくはありませんでした。けれどもこれほど頭の明かな兄さんが、自分の平生から軽蔑《けいべつ》している言葉の上の論理を弄《もてあそ》んで、平気でいるのは少しおかしいと思いました。それで私の腹にあった兄さんの矛盾を遠慮なく話して聞かせました。
 兄さんはまた無言で飯を二口ほど頬張《ほおば》りました。兄さんの茶碗はその時|空《から》になりましたが、飯櫃《めしびつ》は依然として兄さんの手の届かない私の傍《そば》にありました。私はもう一遍給仕をする考えで、兄さんの鼻の先へ手を出したのです。ところが今度は兄さんが応じません。こっちへ寄こしてくれと云います。
 私は飯櫃を向うへ押してやりました。兄さんは自分でしゃもじを取って、飯をてこ盛《もり》にもり上げました。それからその茶碗を膳《ぜん》の上に置いたまま、箸《はし》も執《と》らずに私に問いかけるのです。
「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」
 こうなると私にはおいそれと返事ができなくなります。平生そんな事を考えて見ないからでもありましょうが。今度は私の方が飯を二口三口立て続けに頬張って、兄さんの説明を待ちました。
「嫁に行く前のお貞さんと、嫁に行ったあとのお貞さんとはまるで違っている。今のお貞さんはもう夫のためにスポイルされてしまっている」
「いったいどんな人のところへ嫁に行ったのかね」と私が途中で聞きました。
「どんな人のところへ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪《よこしま》になるのだ。そういう僕がすでに僕の妻《さい》をどのくらい悪くしたか分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押《おし》が強過ぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真《てんしん》を損《そこな》われた女からは要求できるものじゃないよ」
 兄さんはそういうや否や、茶碗を取り上げて、むしゃむしゃてこ盛の飯を平《たい》らげました。

        五十二

 私は旅行に出てから今日《こんにち》に至るまでの兄さんを、これでできるだけ委《くわ》しく書いたつもりです。東京を立ったのはつい昨日《きのう》のようですが、指を折るともう十日あまりになります。私の音信《たより》をあてにして待っておられるあなたや御年寄には、この十日が少し長過ぎたかも知れません。私もそれは察しています。しかしこの手紙の冒頭に御断りしたような事情のために、ここへ来て落ちつくまでは、ほとんど筆を執《と》る余裕がなかったので、やむをえず遅れました。その代り過去十日間のうち、この手紙に洩《も》れた兄さんは一日もありません。私は念を入れてその日その日の兄さんをことごとくこの一封のうちに書き込めました。それが私の申訳です。同時に私の誇りです。私は当初の予期以上に、私の義務を果し得たという自信のもとに、この手紙を書き終るのですから。
 私の費やした時間は、時計の針で仕事の分量を計算して見ない努力だから、数字としては申し上げられませんが、ずいぶんの骨折には違ありませんでした。私は生れて始めてこんな長い手紙を書きました。無論一気には書けません、一日にも書けません。ひまの見つかり次第机に向って書きかけたあとを書き続けて行ったのです。しかしそれは何でもありません。もし私の見た兄さんと、私の理解した兄さんがこの一封のうちに動いているならば、私は今より数層倍の手数《てかず》と労力を費やしても厭《いと》わないつもりです。
 私は私の親愛するあなたの兄さんのために、この手紙を書きます。それから同じく兄さんを親愛するあなたのためにこの手紙を書きます。最後には慈愛に充《み》ちた御年寄、あなたと兄さんの御父さんや御母さんのためにもこの手紙をかきます。私の見た兄さんはおそらくあなた方《がた》の見た兄さんと違っているでしょう。私の理解する兄さんもまたあなた方の理解する兄さんではありますまい。もしこの手紙がこの努力に価《あたい》するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい。違った角度から、同じ人を見て別様の反射を受けたところにあると思って御参考になさい。
 あなた方は兄さんの将来について、とくに明瞭《めいりょう》な知識を得たいと御望みになるかも知れませんが、予言者でない私は、未来に喙《くちばし》を挟《さしは》さむ資格を持っておりません。雲が空に薄暗く被《かぶ》さった時、雨になる事もありますし、また雨にならずにすむ事もあります。ただ雲が空にある間、日の目の拝まれないのは事実です。あなた方は兄さんが傍《はた》のものを不愉快にすると云って、気の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせているようですが、自分が幸福でないものに、他《ひと》を幸福にする力があるはずがありません。雲で包まれている太陽に、なぜ暖かい光を与えないかと逼《せま》るのは、逼る方が無理でしょう。私はこうしていっしょにいる間、できるだけ兄さんのためにこの雲を払おうとしています。あなた方も兄さんから暖かな光を望む前に、まず兄さんの頭を取り巻いている雲を散らしてあげたらいいでしょう。もしそれが散らせないなら、家族のあなた方には悲しい事ができるかも知れません。兄さん自身にとっても悲しい結果になるでしょう。こういう私も悲しゅうございます。
 私は過去十日間の兄さんを、書きました。この十日間の兄さんが、未来の十日間にどうなるかが問題で、その問題には誰も答えられないのです。よし次の十日間を私が受け合うにしたところで、次の一カ月、次の半年《はんとし》の兄さんを誰が受け合えましょう。私はただ過去十日間の兄さんを忠実に書いただけです。頭の鋭くない私が、読み直すひまもなくただ書き流したものだから、そのうちには定めて矛盾があるでしょう。頭の鋭い兄さんの言行にも気のつかないところに矛盾があるかも知れません。けれども私は断言します。兄さんは真面目《まじめ》です。けっして私をごまかそうとしてはいません。私も忠実です。あなたを欺《あざむ》く気は毛頭《もうとう》ないのです。
 私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。この手紙を書き終る今もまたぐうぐう寝ています。私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんがこの眠《ねむり》から永久|覚《さ》めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします」



底本:「夏目漱石全集7」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年4月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
※底本の誤植が疑われる箇所は、岩波文庫、新潮文庫、角川文庫の全てで確認できたもののみを修正し、注記した。
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年6月13日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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