っさい云われない事になっている。約束だからね。それは好いが、そいつが私《わたし》にその盲目の女のいる所を訪問してくれと頼むんだね。何という主意か解らないが、つまりは無沙汰見舞《ぶさたみまい》のようなものさ。当人に云わせると、学問しただけに、鹿爪《しかつめ》らしい理窟《りくつ》を何《なん》が条《じょう》も並べるけれども。つまり過去と現在の中間を結びつけて安心したいのさ。それにどうして盲目になったか、それが大変当人の神経を悩ましていたと見えてね。と云っていまさらその女と新しい関係をつける気はなし、かつは女房子《にょうぼこ》の手前もあるから、自分はわざわざ出かけたくないのさ。のみならず彼がまた昔その女と別れる時余計な事を饒舌《しゃべ》っているんです。僕は少し学問するつもりだから三十五六にならなければ妻帯しない。でやむをえずこの間の約束は取消にして貰うんだってね。ところが奴《やつ》学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持はよくないのだろう。それでとうとう私《わたし》が行く事になった」
「まあ馬鹿らしい」と嫂《あによめ》が云った。
「馬鹿らしかったけれどもとうとう行ったよ」と父が答えた。客も自分も興味ありげに笑い出した。
十六
父には人に見られない一種|剽軽《ひょうきん》なところがあった。ある者は直《ちょく》な方《かた》だとも云い、ある者は気のおけない男だとも評した。
「親爺《おやじ》は全くあれで自分の地位を拵《こしら》え上げたんだね。実際のところそれが世の中なんだろう。本式に学問をしたり真面目に考えを纏《まと》めたりしたって、社会ではちっとも重宝がらない。ただ軽蔑《けいべつ》されるだけだ」
兄はこんな愚痴とも厭味《いやみ》とも、また諷刺《ふうし》とも事実とも、片のつかない感慨を、蔭《かげ》ながらかつて自分に洩《も》らした事があった。自分は性質から云うと兄よりもむしろ父に似ていた。その上年が若いので、彼のいう意味が今ほど明瞭《めいりょう》に解らなかった。
何しろ父がその男に頼まれて、快よく訪問を引受けたのも、多分持って生れた物数奇《ものずき》から来たのだろうと自分は解釈している。
父はやがてその盲目《めくら》の家を音信《おとず》れた。行く時に男は土産《みやげ》のしるしだと云って、百円札を一枚紙に包んで水引をかけたのに、大きな菓子折を一つ添えて父に渡した。父はそれを受取って、俥《くるま》をその女の家に駆《か》った。
女の家は狭かったけれども小綺麗《こぎれい》にかつ住心地よくできていた。縁の隅《すみ》に丸く彫り抜いた御影《みかげ》の手水鉢《ちょうずばち》が据《す》えてあって、手拭掛《てぬぐいかけ》には小新らしい三越の手拭さえ揺《ゆら》めいていた。家内も小人数らしく寂然《ひっそり》として音もしなかった。
父はこの日当りの好いしかし茶がかった小座敷で、初めてその盲人《もうじん》に会った時、ちょっと何と云って好いか分らなかったそうである。
「おれのようなものが言句に窮するなんて馬鹿げた恥を話すようだが実際困ったね。何しろ相手が盲目なんだからね」
父はわざとこう云って皆《みん》なを興《きょう》がらせた。
彼はその場でとうとう男の名を打ち明けて、例の土産ものを取り出しつつ女の前に置いた。女は眼が悪いので菓子折を撫《な》でたり擦《さす》ったりして見た上、「どうも御親切に……」と恭《うやうや》しく礼を述べたが、その上にある紙包を手で取上げるや否や、少し変な顔をして「これは?」と念を押すように聞いた。父は例の気性《きしょう》だから、呵々《からから》と笑いながら、「それも御土産《おみやげ》の一部分です、どうか一緒に受取っておいて下さい」と云った。すると女が水引の結び目を持ったまま、「もしや金子《きんす》ではございませんか」と問い返した。
「いえ何はなはだ軽少で、――しかし○○さんの寸志ですからどうぞ御納め下さい」
父がこう云った時、女はぱたりとこの紙包を畳の上に落した。そうして閉じた眸《ひとみ》をきっと父の方へ向けて、「私は今|寡婦《やもめ》でございますが、この間まで歴乎《れっき》とした夫がございました。子供は今でも丈夫でございます。たといどんな関係があったにせよ、他人さまから金子を頂いては、楽《らく》に今日《こんにち》を過すようにしておいてくれた夫の位牌《いはい》に対してすみませんから御返し致します」と判切《はっきり》云って涙を落した。
「これには実に閉口したね」と父は皆《みん》なの顔を一順《いちじゅん》見渡したが、その時に限って、誰も笑うものはなかった。自分も腹の中で、いかな父でもさすがに弱ったろうと思った。
「その時わしは閉口しながらも、ああ景清《かげきよ》を女にしたらやっぱりこんなものじゃなかろうかと思ってね。本当は感心しましたよ。どういう訳で景清を思い出したかと云うとね。ただ双方とも盲目《めくら》だからと云うばかりじゃない。どうもその女の態度がね……」
父は考えていた。父の筋向うに坐《すわ》っていた赭顔《あからがお》の客が、「全く気込《きごみ》が似ているからですね」とさもむずかしい謎《なぞ》でも解くように云った。
「全く気込です」と父はすぐ承服した。自分はこれで父の話が結末に来たのかと思って、「なるほどそれは面白い御話です」と全体を批評するような調子で云った。すると父は「まだ後《あと》があるんだ。後の方がまだ面白い。ことに二郎のような若い者が聞くと」とつけ加えた。
十七
父は意外な女の見識に、話の腰を折られて、やむをえず席を立とうとした。すると女は始めて女らしい表情を面《おもて》に湛《たた》えて、縋《すが》りつくように父をとめた。そうしていつ何日《いつか》どこで○○が自分を見たのかと聞いた。父は例の有楽座の事を包み蔵《かく》さず盲人《もうじん》に話して聞かせた。
「ちょうどあなたの隣に腰をかけていたんだそうです。あなたの方ではまるで知らなかったでしょうが、○○は最初から気がついていたのです。しかし細君や娘の手前、口を利《き》く事もでき悪《にく》かったんでしょう。それなり宅《うち》へ帰ったと云っていました」
父はその時始めて盲目《めくら》の涙腺《るいせん》から流れ出る涙を見た。
「失礼ながら眼を御煩《おわずら》いになったのはよほど以前の事なんですか」と聞いた。
「こういう不自由な身体《からだ》になってから、もう六年ほどにもなりましょうか。夫が亡《な》くなって一年|経《た》つか経たないうちの事でございます。生《うま》れつきの盲目と違って、当座は大変不自由を致しました」
父は慰めようもなかった。彼女のいわゆる夫というのは何でも、請負師《うけおいし》か何かで、存生中《ぞんしょうちゅう》にだいぶ金を使った代りに、相応の資産も残して行ったらしかった。彼女はその御蔭《おかげ》で眼を煩った今日《こんにち》でも、立派に独立して暮して行けるのだろうと父は説明した。
彼女は人に誇ってしかるべき倅《せがれ》と娘を持っていた。その倅には高等の教育こそ施してないようだったけれども、何でも銀座辺のある商会へ這入《はい》って独立し得るだけの収入を得ているらしかった。娘の方は下町風の育て方で、唄《うた》や三味線の稽古《けいこ》を専一と心得させるように見えた。すべてを通じて○○とは遠い過去に焼きつけられた一点の記憶以外に何ものをも共通にもっているとは思えなかった。
父が有楽座の話をした時に、女は両方の眼をうるませて、「本当に盲目ほど気の毒なものはございませんね」と云ったのが、痛く父の胸には応《こた》えたそうである。
「○○さんは今何をしておいででございますか」と女はまた空中に何物をか想像するがごとき眼遣《めづかい》をして父に聞いた。父は残りなく○○が学校を出てから以後の経歴を話して聞かせた後、「今じゃなかなか偉くなっていますよ。私見たいな老朽とは違ってね」と答えた。
女は父の返事には耳も借さずに、「定めてお立派な奥さんをお貰いになったでございましょうね」とおとなしやかに聞いた。
「ええもう子供が四人《よつたり》あります」
「一番お上のはいくつにお成りで」
「さようさもう十二三にも成りましょうか。可愛《かわい》らしい女の子ですよ」
女は黙ったなりしきりに指を折って何か勘定《かんじょう》し始めた。その指を眺めていた父は、急に恐ろしくなった。そうして腹の中で余計な事を云って、もう取り返しがつかないと思った。
女はしばらく間をおいて、ただ「結構でございます」と一口云って後は淋《さび》しく笑った。しかしその笑い方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも変な感じを与えたと云った。
父は○○の宿所を明らさまに告げて、「ちと暇な時に遊びがてら御嬢さんでも連れて行って御覧なさい。ちょっと好い家《うち》ですよ。○○も夜ならたいてい御目にかかれると云っていましたから」と云った。すると女はたちまち眉《まゆ》を曇らして、「そんな立派な御屋敷へ我々|風情《ふぜい》がとても御出入《おでいり》はできませんが」と云ったまましばらく考えていたが、たちまち抑え切れないように真剣な声を出して、「御出入は致しません。先様《さきさま》で来いとおっしゃってもこっちで御遠慮しなければなりません。しかしただ一つ一生の御願に伺っておきたい事がございます。こうして御目にかかれるのももう二度とない御縁だろうと思いますから、どうぞそれだけ聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます」と云った。
十八
父は年の割に度胸の悪い男なので、女からこう云われた時は、どんな凄《すさ》まじい文句を並べられるかと思って、少からず心配したそうである。
「幸い相手の眼が見えないので、自分の周章《あわて》さ加減を覚《さと》られずにすんだ」と彼はことさらにつけ加えた。その時女はこう云ったそうである。
「私は御覧の通り眼を煩《わずら》って以来、色という色は皆目《かいもく》見えません。世の中で一番明るい御天道様《おてんとさま》さえもう拝む事はできなくなりました。ちょっと表へ出るにも娘の厄介《やっかい》にならなければ用事は足せません。いくら年を取っても一人で不自由なく歩く事のできる人間が幾人《いくたり》あるかと思うと、何の因果《いんが》でこんな業病《ごうびょう》に罹《かか》ったのかと、つくづく辛い心持が致します。けれどもこの眼は潰《つぶ》れてもさほど苦しいとは存じません。ただ両方の眼が満足に開いている癖に、他《ひと》の料簡方《りょうけんがた》が解らないのが一番苦しゅうございます」
父は「なるほど」と答えた。「ごもっとも」とも答えた。けれども女のいう意味はいっこう通じなかった。彼にはそういう経験がまるでなかったと彼は明言した。女は瞹眛《あいまい》な父の言葉を聞いて、「ねえあなたそうではございませんか」と念を押した。
「そりゃそんな場合は無論有るでしょう」と父が云った。
「有るでしょうでは、あなたもわざわざ○○さんに御頼まれになって、ここまでいらしって下すった甲斐《かい》がないではございませんか」と女が云った。父はますます窮した。
自分はこの時偶然兄の顔を見た。そうして彼の神経的に緊張した眼の色と、少し冷笑を洩《も》らしているような嫂《あによめ》の唇《くちびる》との対照を比較して、突然彼らの間にこの間から蟠《わだか》まっている妙な関係に気がついた。その蟠まりの中に、自分も引きずり込まれているという、一種|厭《いと》うべき空気の匂《にお》いも容赦なく自分の鼻を衝《つ》いた。自分は父がなぜ座興とは云いながら、択《よ》りに択って、こんな話をするのだろうと、ようやく不安の念が起った。けれども万事はすでに遅かった。父は知らぬ顔をして勝手次第に話頭を進めて行った。
「おれはそれでも解らないから、淡泊《たんぱく》にその女に聞いて見た。せっかく○○に頼まれてわざわざここまで来て、肝心《かんじん》な要領を伺わないで引き取っては、あなたに対して
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