《はるばる》父を尋ねに日向《ひゅうが》まで下《くだ》る娘の態度から、涙に化して自分の眼を輝かせた場合が、一二度あった。
しかしそれは歴乎《れっき》とした謡手が本気に各自の役を引き受けた場合で、今聞かせられているような胡麻節《ごまぶし》を辿《たど》ってようやく出来上る景清に対してはほとんど同情が起らなかった。
やがて景清の戦物語《いくさものがたり》も済んで一番の謡も滞《とどこお》りなく結末まで来た。自分はその成蹟《せいせき》を何と評して好いか解らないので、少し不安になった。嫂は平生の寡言《かごん》にも似ず「勇しいものですね」と云った。自分も「そうですね」と答えておいた。すると多分一口も開くまいと思った兄が、急に赭顔の客に向って、「さすがに我も平家なり物語り申してとか、始めてとかいう句がありましたが、あのさすがに我も平家なりという言葉が大変面白うございました」と云った。
兄は元来正直な男で、かつ己《おの》れの教育上|嘘《うそ》を吐《つ》かないのを、品性の一部分と心得ているくらいの男だから、この批評に疑う余地は少しもなかった。けれども不幸にして彼の批評は謡の上手下手でなくって、文章の巧拙に属する話だから、相手にはほとんど手応《てごたえ》がなかった。
こう云う場合に馴《な》れた父は「いやあすこは非常に面白く拝聴した」と客の謡《うた》いぶりを一応|賞《ほ》めた後《あと》で、「実はあれについて思い出したが、大変興味のある話がある。ちょうどあの文句を世話に崩《くず》して、景清を女にしたようなものだから、謡よりはよほど艶《えん》である。しかも事実でね」と云い出した。
十三
父は交際家だけあって、こういう妙な話をたくさん頭の中にしまっていた。そうして客でもあると、献酬《けんしゅう》の間によくそれを臨機応変に運用した。多年父の傍《そば》に寝起《ねおき》している自分にもこの女景清《おんなかげきよ》の逸話は始めてであった。自分は思わず耳を傾けて父の顔を見た。
「ついこの間の事で、また実際あった事なんだから御話をするが、その発端《ほったん》はずっと古い。古いたって何も源平時代から説き出すんじゃないからそこは御安心だが、何しろ今から二十五六年前、ちょうど私の腰弁時代とでも云いましょうかね……」
父はこういう前置をして皆《みん》なを笑わせた後《あと》で本題に這入《はい》った。それは彼の友達と云うよりもむしろずっと後輩に当る男の艶聞《えんぶん》見たようなものであった。もっとも彼は遠慮して名前を云わなかった。自分は家《うち》へ出入《ではい》る人の数々について、たいていは名前も顔も覚えていたが、この逸話をもった男だけはいくら考えてもどんな想像も浮かばなかった。自分は心のうちで父は今|表向《おもてむき》多分この人と交際しているのではなかろうと疑ぐった。
何しろ事はその人の二十《はたち》前後に起ったので、その時当人は高等学校へ這入り立てだとか、這入ってから二年目になるとか、父ははなはだ瞹眛《あいまい》な説明をしていたが、それはどっちにしたって、我々の気にかかるところではなかった。
「その人は好い人間だ。好い人間にもいろいろあるが、まあ好い人間だ。今でもそうだから、廿歳《はたち》ぐらいの時分は定めて可愛らしい坊ちゃんだったろう」
父はその男をこう荒っぽく叙述《じょじゅつ》しておいて、その男とその家の召使とがある関係に陥入《おちい》った因果《いんが》をごく単簡《たんかん》に物語った。
「元来そいつはね本当の坊ちゃんだから、情事なんて洒落《しゃれ》た経験はまるでそれまで知らなかったのだそうだ。当人もまた婦人に慕《した》われるなんて粋事《いきごと》は自分のようなものにとうてい有り得べからざる奇蹟《きせき》と思っていたのだそうだ。ところがその奇蹟が突然天から降って来たので大変驚ろいたんですね」
話しかけられた客はむしろ真面目《まじめ》な顔をして、「なるほど」と受けていたが、自分はおかしくてたまらなかった。淋《さみ》しそうな兄の頬《ほお》にも笑の渦《うず》が漂《ただ》よった。
「しかもそれが男の方が消極的で、女の方が積極的なんだからいよいよ妙ですよ。私がそいつに、その女が君に覚召《おぼしめし》があると悟ったのはどういう機《はずみ》だと聞いたらね。真面目《まじめ》な顔をして、いろいろ云いましたが、そのうちで一番面白いと思ったせいか、いまだに覚えているのは、そいつが瓦煎餅《かわらせんべい》か何か食ってるところへ女が来て、私にもその御煎餅《おせんべ》をちょうだいなと云うや否や、そいつの食い欠いた残りの半分を引《ひ》っ手繰《たく》って口へ入れたという時なんです」
父の話方は無論|滑稽《こっけい》を主にして、大事の真面目な方を背景に引き込ましてしまうので、聞いている客を始め我々三人もただ笑うだけ笑えばそれで後《あと》には何も残らないような気がした。その上客は笑う術をどこかで練修《れんしゅう》して来たように旨《うま》く笑った。一座のうちで比較的真面目だったのはただ兄一人であった。
「とにかくその結果はどうなりました。めでたく結婚したんですか」と冗談とも思われない調子で聞いていた。
「いやそこをこれから話そうというのだ。先刻《さっき》も云った通り『景清』の趣《おもむき》の出てくるところはこれからさ。今言ってるところはほんの冒頭《まえおき》だて」と父は得意らしく答えた。
十四
父の話すところによると、その男とその女の関係は、夏の夜の夢のようにはかないものであった。しかし契《ちぎ》りを結んだ時、男は女を未来の細君にすると言明したそうである。もっともこれは女から申し出した条件でも何でもなかったので、ただ男の口から勢いに駆《か》られて、おのずと迸《ほとば》しった、誠ではあるが実行しにくい感情的の言葉に過ぎなかったと父はわざわざ説明した。
「と云うのはね、両方共おない年でしょう。しかも一方は親の脛《すね》を噛《かじ》ってる前途遼遠《ぜんとりょうえん》の書生だし、一方は下女奉公でもして暮そうという貧しい召使いなんだから、どんな堅い約束をしたって、その約束の実行ができる長い年月の間には、どんな故障が起らないとも限らない。で、女が聞いたそうですよ。あなたが学校を卒業なさると、二十五六に御成《おな》んなさる。すると私も同じぐらいに老《ふ》けてしまう。それでも御承知ですかってね」
父はそこへ来て、急に話を途切《とぎ》らして、膝の下にあった銀煙管《ぎんぎせる》へ煙草《たばこ》を詰めた。彼が薄青い煙を一時に鼻の穴から出した時、自分はもどかしさの余り「その人は何て答えました」と聞いた。
父は吸殻《すいがら》を手で叩《はた》きながら「二郎がきっと何とか聞くだろうと思った。二郎面白いだろう。世間にはずいぶんいろいろな人があるもんだよ」と云って自分を見た。自分はただ「へえ」と答えた。
「実はわしも聞いて見た、その男に。君何て答えたかって。すると坊ちゃんだね、こう云うんだ。僕は自分の年も先の年も知っていた。けれども僕が卒業したら女がいくつになるか、そこまでは考えていられなかった。いわんや僕が五十になれば先も五十になるなんて遠い未来は全く頭の中に浮かんで来なかったって」
「無邪気なものですね」と兄はむしろ賛嘆《さんたん》の口《くち》ぶりを見せた。今まで黙っていた客が急に兄に賛成して、「全くのところ無邪気だ」とか「なるほど若いものになるといかにも一図《いちず》ですな」とか云った。
「ところが一週間|経《た》つか経たないうちにそいつが後悔し始めてね、なに女は平気なんだが、そいつが自分で恐縮してしまったのさ。坊ちゃんだけに意気地のない事ったら。しかし正直ものだからとうとう女に対してまともに結婚破約を申し込んで、しかもきまりの悪そうな顔をして、御免《ごめん》よとか何とか云って謝罪《あや》まったんだってね。そこへ行くとおない年だって先は女だもの、『御免よ』なんて子供らしい言葉を聞けば可愛《かわ》いくもなるだろうが、また馬鹿馬鹿しくもなるだろうよ」
父は大きな声を出して笑った。御客もその反響のごとくに笑った。兄だけはおかしいのだか、苦々《にがにが》しいのだか変な顔をしていた。彼の心にはすべてこう云う物語が厳粛な人生問題として映るらしかった。彼の人生観から云ったら父の話しぶりさえあるいは軽薄に響いたかもしれない。
父の語るところを聞くと、その女はしばらくしてすぐ暇を貰ってそこを出てしまったぎり再び顔を見せなかったけれども、その男はそれ以来二三カ月の間何か考え込んだなり魂が一つ所にこびりついたように動かなかったそうである。一遍その女が近所へ来たと云って寄った時などでも、ほかの人の手前だか何だかほとんど一口も物を云わなかった。しかもその時はちょうど午飯《ひるめし》の時で、その女が昔の通り御給仕をしたのだが、男はまるで初対面の者にでも逢《あ》ったように口数《くちかず》を利《き》かなかった。
女もそれ以来けっして男の家の敷居を跨《また》がなかった。男はまるでその女の存在を忘れてしまったように、学校を出て家庭を作って、二十何年というつい近頃まで女とは何らの交渉もなく打過ぎた。
十五
「それだけで済めばまあただの逸話さ。けれども運命というものは恐しいもので……」と父がまた語り続けた。
自分は父が何を云い出すかと思って、彼の顔から自分の眼を離し得なかった。父の物語りの概要を摘《つま》んで見ると、ざっとこうであった。
その男がその女をまるで忘れた二十何年の後《のち》、二人が偶然運命の手引で不意に会った。会ったのは東京の真中であった。しかも有楽座で名人会とか美音会《びおんかい》とかのあった薄ら寒い宵《よい》の事だそうである。
その時男は細君と女の子を連れて、土間《どま》の何列目か知らないが、かねて注文しておいた席に並んでいた。すると彼らが入場して五分|経《た》つか立たないのに、今云った女が他の若い女に手を引かれながら這入《はい》って来た。彼らも電話か何かで席を予約しておいたと見えて、男の隣にあるエンゲージドと紙札を張った所へ案内されたままおとなしく腰をかけた。二人はこういう奇妙な所で、奇妙に隣合わせに坐った。なおさら奇妙に思われたのは、女の方が昔と違った表情のない盲目《めくら》になってしまって、ほかにどんな人がいるか全く知らずに、ただ舞台から出る音楽の響にばかり耳を傾けているという、男に取ってはまるで想像すらし得なかった事実であった。
男は始め自分の傍《そば》に坐る女の顔を見て過去二十年の記憶を逆《さか》さに振られたごとく驚ろいた。次に黒い眸《ひとみ》をじっと据《す》えて自分を見た昔の面影《おもかげ》が、いつの間にか消えていた女の面影に気がついて、また愕然《がくぜん》として心細い感に打たれた。
十時過まで一つの席にほとんど身動きもせずに坐っていた男は、舞台で何をやろうが、ほとんど耳へは這入らなかった。ただ女に別れてから今日《こんにち》に至る運命の暗い糸を、いろいろに想像するだけであった。女はまたわが隣にいる昔の人を、見もせず、知りもせず、全く意識に上《のぼ》す暇《いとま》もなく、ただ自然に凋落《ちょうらく》しかかった過去の音楽に、やっとの思いで若い昔を偲《しの》ぶ気色《けしき》を濃い眉《まゆ》の間に示すに過ぎなかった。
二人は突然として邂逅《かいこう》し、突然として別れた。男は別れた後《のち》もしばしば女の事を思い出した。ことに彼女の盲目が気にかかった。それでどうかして女のいる所を突きとめようとした。
「馬鹿正直なだけに熱心な男だもんだから、とうとう成功した。その筋道も聞くには聞いたが、くだくだしくって忘れちまったよ。何でも彼がその次に有楽座へ行った時、案内者を捕《つら》まえて、何とかかんとかした上に、だいぶ込み入った手数《てかず》をかけたんだそうだ」
「どこにいたんですその女は」と自分は是非確めたくなった。
「それは秘密だ。名前や所はい
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