の品格が堕落する場合が多い。恐ろしい目に会う事さえある。まあ用心が肝心《かんじん》だ」と云った。
お貞さんには兄の意味が全く通じなかったらしい。何と答えて好いか解らないので、むしろ途方《とほう》に暮れた顔をしながら涙を眼にいっぱい溜《た》めていた。兄はそれを見て、「お貞さん余計な事を話して御気の毒だったね。今のは冗談だよ。二郎のような向う見ずに云って聞かせる事を、ついお貞さん見たいな優《やさ》しい娘さんに云っちまったんだ。全くの間違だ。勘弁《かんべん》してくれたまえ。今夜は御馳走《ごちそう》があるかね。二郎それじゃ御膳《ごぜん》を食べに行こう」と云った。
お貞さんは兄が籐椅子から立ち上るのを見るや否や、すぐ腰を立てて一足先へ階子段《はしごだん》をとんとんと下りて行った。自分は兄と肩を比《なら》べて室《へや》を出にかかった。その時兄は自分を顧みて「二郎、この間の問題もそれぎりになっていたね。つい書物や講義の事が忙《いそが》しいものだから、聞こう聞こうと思いながら、ついそのままにしておいてすまない。そのうちゆっくり聴《き》くつもりだから、どうか話してくれ」と云った。自分は「この間の問題とは何ですか」と空惚《そらとぼ》けたかった。けれどもそんな勇気はこの際出る余裕がなかったから、まず体裁の好い挨拶《あいさつ》だけをしておいた。
「こう時間が経《た》つと、何だか気の抜けた麦酒《ビール》見たようで、僕には話し悪《にく》くなってしまいましたよ。しかしせっかくのお約束だから聴《き》くとおっしゃればやらん事もありませんがね。しかし兄さんのいわゆる生き甲斐《がい》のある秋にもなったものだから、そんなつまらない事より、まず第一に遠足でもしようじゃありませんか」
「うん遠足も好かろうが……」
二人はこんな話を交換しながら、食卓の据《す》えてある下の室《へや》に入った。そうしてそこに芳江を傍《そば》に引きつけている嫂《あによめ》を見出した。
七
食卓の上で父と母は偶然またお貞さんの結婚問題を話頭に上《のぼ》せた。母は兼《かね》て白縮緬《しろちりめん》を織屋から買っておいたから、それを紋付《もんつき》に染めようと思っているなどと云った。お貞さんはその時みんなの後《うしろ》に坐《すわ》って給仕をしていたが、急に黒塗の盆をおはち[#「はち」に傍点]の上へ置いたなり席を立ってしまった。
自分は彼女の後姿《うしろすがた》を見て笑い出した。兄は反対に苦《にが》い顔をした。
「二郎お前がむやみに調戯《からか》うからいけない。ああ云う乙女《おぼこ》にはもう少しデリカシーの籠《こも》った言葉を使ってやらなくっては」
「二郎はまるで堂摺連《どうするれん》と同じ事だ」と父が笑うようなまた窘《たし》なめるような句調で云った。母だけは一人不思議な顔をしていた。
「なに二郎がね。お貞さんの顔さえ見ればおめでとうだの嬉しい事がありそうだのって、いろいろの事を云うから、向うでも恥かしがるんです。今も二階で顔を赤くさせたばかりのところだもんだから、すぐ逃げ出したんです。お貞さんは生れつきからして直《なお》とはまるで違ってるんだから、こっちでもそのつもりで注意して取り扱ってやらないといけません……」
兄の説明を聞いた母は始めてなるほどと云ったように苦笑した。もう食事を済ましていた嫂は、わざと自分の顔を見て変な眼遣《めづかい》をした。それが自分には一種の相図のごとく見えた。自分は父から評された通りだいぶ堂摺連の傾きを持っていたが、この時は父や母に憚《はばか》って、嫂の相図を返す気は毫《ごう》も起らなかった。
嫂は無言のまますっと立った、室《へや》の出口でちょっと振り返って芳江を手招きした。芳江もすぐ立った。
「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重が聞いた。芳江はそこに立ったまま、どうしたものだろうかと思案する様子に見えた。嫂は「おや芳江さん来ないの」とさもおとなしやかに云って廊下の外へ出た。今まで躊躇《ちゅうちょ》していた芳江は、嫂の姿が見えなくなるや否や急に意を決したもののごとく、ばたばたとその後《あと》を追駈《おいか》けた。
お重は彼女の後姿《うしろすがた》をさも忌々《いまいま》しそうに見送った。父と母は厳格な顔をして己《おの》れの皿の中を見つめていた。お重は兄を筋違《すじか》いに見た。けれども兄は遠くの方をぼんやり眺めていた。もっとも彼の眉根《まゆね》には薄く八の字が描かれていた。
「兄さん、そのプッジングを妾《あたし》にちょうだい。ね、好いでしょう」とお重が兄に云った。兄は無言のまま皿をお重の方に押《おし》やった。お重も無言のままそれを匙《スプーン》で突《つっ》ついたが、自分から見ると、食べたくない物を業腹《ごうはら》で食べているとしか思われなかった。
兄が席を立って書斎に入《い》ったのはそれからしてしばらく後《のち》の事であった。自分は耳を峙《そばだ》てて彼の上靴《スリッパ》が静《しずか》に階段を上《のぼ》って行く音を聞いた。やがて上の方で書斎の戸《ドア》がどたんと閉まる声がして、後は静になった。
東京へ帰ってから自分はこんな光景をしばしば目撃した。父もそこには気がついているらしかった。けれども一番心配そうなのは母であった。彼女は嫂《あによめ》の態度を見破って、かつ容赦の色を見せないお重を、一日も早く片づけて若い女同士の葛藤《かっとう》を避けたい気色《けしき》を色にも顔にも挙動にも現した。次にはなるべく早く嫁を持たして、兄夫婦の間から自分という厄介《やっかい》ものを抜き去りたかった。けれども複雑な世の中は、そう母の思うように旨《うま》く回転してくれなかった。自分は相変らず、のらくらしていた。お重はますます嫂を敵《かたき》のように振舞った。不思議に彼女は芳江を愛した。けれどもそれは嫂のいない留守に限られていた。芳江も嫂のいない時ばかりお重に縋《すが》りついた。兄の額には学者らしい皺《しわ》がだんだん深く刻《きざ》まれて来た。彼はますます書物と思索の中に沈んで行った。
八
こんな訳で、母の一番軽く見ていたお貞さんの結婚が最初にきまったのは、彼女の思わくとはまるで反対であった。けれども早晩《いつか》片づけなければならないお貞さんの運命に一段落をつけるのも、やはり父や母の義務なんだから、彼らは岡田の好意を喜びこそすれ、けっしてそれを悪く思うはずはなかった。彼女の結婚が家中《うちじゅう》の問題になったのもつまりはそのためであった。お重はこの問題についてよくお貞さんを捕《つら》まえて離さなかった。お貞さんはまたお重には赤い顔も見せずに、いろいろの相談をしたり己《おの》れの将来をも語り合ったらしい。
ある日自分が外から帰って来て、風呂から上ったところへ、お重が、「兄さん佐野さんていったいどんな人なの」と例の前後を顧慮しない調子で聞いた。これは自分が大阪から帰ってから、もう二度目もしくは三度目の質問であった。
「何だそんな藪《やぶ》から棒に。御前はいったい軽卒でいけないよ」
怒りやすいお重は黙って自分の顔を見ていた。自分は胡坐《あぐら》をかきながら、三沢へやる端書《はがき》を書いていたが、この様子を見て、ちょっと筆を留めた。
「お重また怒ったな。――佐野さんはね、この間云った通り金縁眼鏡《きんぶちめがね》をかけたお凸額《でこ》さんだよ。それで好いじゃないか。何遍聞いたって同《おんな》じ事だ」
「お凸額《でこ》や眼鏡は写真で充分だわ。何も兄さんから聞かないだって妾《あたし》知っててよ。眼があるじゃありませんか」
彼女はまだ打ち解けそうな口の利《き》き方をしなかった。自分は静かに端書《はがき》と筆を机の上へ置いた。
「全体何を聞こうと云うのだい」
「全体あなたは何を研究していらしったんです。佐野さんについて」
お重という女は議論でもやり出すとまるで自分を同輩のように見る、癖《くせ》だか、親しみだか、猛烈な気性《きしょう》だか、稚気《ちき》だかがあった。
「佐野さんについてって……」と自分は聞いた。
「佐野さんの人《ひと》となりについてです」
自分は固《もと》よりお重を馬鹿にしていたが、こういう真面目《まじめ》な質問になると、腹の中でどっしりした何物も貯えていなかった。自分はすまして巻煙草《まきたばこ》を吹かし出した。お重は口惜《くや》しそうな顔をした。
「だって余《あん》まりじゃありませんか、お貞さんがあんなに心配しているのに」
「だって岡田がたしかだって保証するんだから、好いじゃないか」
「兄さんは岡田さんをどのくらい信用していらっしゃるんです。岡田さんはたかが将棋の駒じゃありませんか」
「顔は将棋の駒だって何だって……」
「顔じゃありません。心が浮いてるんです」
自分は面倒と癇癪《かんしゃく》でお重を相手にするのが厭《いや》になった。
「お重御前そんなにお貞さんの事を心配するより、自分が早く嫁にでも行く工夫をした方がよっぽど利口だよ。お父さんやお母さんは、お前が片づいてくれる方をお貞さんの結婚よりどのくらい助かると思っているか解りゃしない。お貞さんの事なんかどうでもいいから、早く自分の身体《からだ》の落ちつくようにして、少し親孝行でも心がけるが好い」
お重ははたして泣き出した。自分はお重と喧嘩《けんか》をするたびに向うが泣いてくれないと手応《てごたえ》がないようで、何だか物足らなかった。自分は平気で莨《たばこ》を吹かした。
「じゃ兄さんも早くお嫁を貰《もら》って独立したら好いでしょう。その方が妾が結婚するよりいくら親孝行になるか知れやしない。厭に嫂《ねえ》さんの肩ばかり持って……」
「お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」
「当前《あたりまえ》ですわ。大兄《おおにい》さんの妹ですもの」
九
自分は三沢へ端書《はがき》を書いた後《あと》で、風呂から出立《でたて》の頬に髪剃《かみそり》をあてようと思っていた。お重を相手にぐずぐずいうのが面倒になったのを好い幸いに、「お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか」と頼んだ。お重は嗽茶碗《うがいぢゃわん》どころの騒ぎではないらしかった。それよりまだ十倍も厳粛な人生問題を考えているもののごとく澄まして膨《ふく》れていた。自分はお重に構わず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰った。それから机の上へ旅行用の鏡を立てて、象牙《ぞうげ》の柄《え》のついた髪剃《かみそり》を並べて、熱湯で濡《ぬ》らした頬をわざと滑稽《こっけい》に膨《ふく》らませた。
自分が物新しそうにシェーヴィング・ブラッシを振り廻して、石鹸《シャボン》の泡で顔中を真白にしていると、先刻《さっき》から傍《そば》に坐ってこの様子を見ていたお重は、ワッと云う悲劇的な声をふり上げて泣き出した。自分はお重の性質として、早晩ここに来るだろうと思って、暗《あん》にこの悲鳴を予期していたのである。そこでますます頬《ほっ》ぺたに空気をいっぱい入れて、白い石鹸をすうすうと髪剃の刃で心持よさそうに落し始めた。お重はそれを見て業腹《ごうはら》だか何だかますます騒々しい声を立てた。しまいに「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。自分はお重を馬鹿にしていたには違ないが、この鋭い声には少し驚かされた。
「何だ」
「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私はあなたの妹です。嫂《ねえ》さんはいくらあなたが贔屓《ひいき》にしたって、もともと他人じゃありませんか」
自分は髪剃を下へ置いて、石鹸だらけの頬をお重の方に向けた。
「お重お前は逆《のぼ》せているよ。お前がおれの妹で、嫂さんが他家《よそ》から嫁に来た女だぐらいは、お前に教わらないでも知ってるさ」
「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたような方《かた》をお貰《もら》いなすったら好いじゃありませんか」
自分は平手《ひらて》でお重の頭を一つ張りつけてやりたかった。けれども家中騒ぎ廻られ
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