る浪の音を嫌《きら》った。
「もうもう和歌の浦も御免《ごめん》。海も御免。慾も得も要らないから、早く東京へ帰りたいよ」
 母はこう云って眉《まゆ》をひそめた。兄は肉のない頬へ皺《しわ》を寄せて苦笑した。
「二郎達は昨夕どこへ泊ったんだい」と聞いた。
 自分は和歌山の宿の名を挙げて答えた。
「好い宿かい」
「何だかかんだか、ただ暗くって陰気なだけです。ねえ姉さん」
 その時兄は走るような眼を嫂に転じた。
 嫂はただ自分の顔を見て「まるでお化《ばけ》でも出そうな宅《うち》ね」と云った。
 日の夕暮に自分は嫂と階段の下で出逢《であ》った。その時自分は彼女に「どうです、兄さんは怒ってるんでしょうか」と聞いて見た。嫂は「どうだか腹の中はちょっと解らないわ」と淋《さび》しく笑いながら上へ昇って行った。

        四十一

 母が暴風雨に怖気《おじけ》がついて、早く立とうと云うのを機《しお》に、みんなここを切上げて一刻も早く帰る事にした。
「いかな名所でも一日二日は好いが、長くなるとつまらないですね」と兄は母に同意していた。
 母は自分を小蔭《こかげ》へ呼んで、「二郎お前どうするつもりだい」と聞いた。自分は自分の留守中に兄が万事を母に打ち明けたのかと思った。しかし兄の平生から察すると、そんな行き抜けの人《ひと》となりでもなさそうであった。
「兄さんは昨夕僕らが帰らないんで、機嫌《きげん》でも悪くしているんですか」
 自分がこう質問をかけた時、母は少しの間黙っていた。
「昨夕《ゆうべ》はね、知っての通りの浪《なみ》や風だから、そんな話をする閑《ひま》も無かったけれども……」
 母はどうしてもそこまでしか云わなかった。
「お母さんは何だか僕と嫂《ねえ》さんの仲を疑ぐっていらっしゃるようだが……」と云いかけると、今まで自分の眼をじっと見ていた母は急に手を振って自分を遮《さえぎ》った。
「そんな事があるものかねお前、お母さんに限って」
 母の言葉は実際|判然《はっきり》した言葉に違なかった。顔つきも眼つきもきびきびしていた。けれども彼女の腹の中はとても読めなかった。自分は親身《しんみ》の子として、時たま本当の父や母に向いながら嘘《うそ》と知りつつ真顔で何か云い聞かされる事を覚えて以来、世の中で本式の本当を云い続けに云うものは一人もないと諦《あきら》めていた。
「兄さんには僕から万事話す事になっています。そう云う約束になってるんだから、お母さんが心配なさる必要はありません。安心していらっしゃい」
「じゃなるべく早く片づけた方が好いよ二郎」
 自分達はその明くる宵《よい》の急行で東京へ帰る事にきめていた。実はまだ大阪を中心として、見物かたがた歩くべき場所はたくさんあったけれども、母の気が進まず、兄の興味が乗らず、大阪で中継《なかつぎ》をする時間さえ惜んで、すぐ東京まで寝台で通そうと云うのが母と兄の主張であった。
 自分達は是非共|翌日《あした》の朝の汽車で和歌山から大阪へ向けて立たなければならなかった。自分は母の命令で岡田の宅《うち》まで電報を打った。
「佐野さんへはかける必要もないでしょう」と云いながら自分は母と兄の顔を眺めた。
「あるまい」と兄が答えた。
「岡田へさえ打っておけば、佐野さんはうっちゃっておいてもきっと送りに来てくれるよ」
 自分は電報紙を持ちながら、是非共お貞《さだ》さんを貰いたいという佐野のお凸額《でこ》とその金縁眼鏡《きんぶちめがね》を思い出した。
「ではあのお凸額さんは止《や》めておこう」
 自分はこう云って、みんなを笑わせた。自分がとうから佐野の御凸額を気にしていたごとく、ほかのものも同じ人の同じ特色を注意していたらしかった。
「写真で見たより御凸額ね」と嫂《あによめ》は真面目《まじめ》な顔で云った。
 自分は冗談のうちに自分を紛《まぎら》しつつ、どんな折を利用して嫂の事を兄に復命したものだろうかと考えていた。それで時々|偸《ぬす》むようにまた先方の気のつかないように兄の様子を見た。ところが兄は自分の予期に反して、全くそれには無頓着《むとんじゃく》のように思われた。

        四十二

 自分が兄から別室に呼出されたのはそれが済んでしばらくしてであった。その時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装《よそお》って、)「二郎ちょっと話がある。あっちの室《へや》へ来てくれ」と穏かに云った。自分はおとなしく「はい」と答えて立った。しかしどうした機《はずみ》か立つときに嫂《あによめ》の顔をちょっと見た。その時は何の気もつかなかったが、この平凡な所作がその後自分の胸には絶えず驕慢《きょうまん》の発現として響いた。嫂は自分と顔を合せた時、いつもの通り片靨《かたえくぼ》を見せて笑った。自分と嫂の眼を他《ひと》から見たら、どこかに得意の光を帯びていたのではあるまいか。自分は立ちながら、次の室《へや》で浴衣《ゆかた》を畳んでいた母の方をちょっと顧て、思わず立竦《たちすく》んだ。母の眼つきは先刻《さっき》からたった一人でそっと我々を観察していたとしか見えなかった。自分は母から疑惑の矢を胸に射つけられたような気分で兄のいる室へ這入《はい》った。
 その頃はちょうど旧暦の盆で、いわゆる盆波《ぼんなみ》の荒いためか、泊り客は無論、日返りの遊び客さえいつもほどは影を見せなかった。広い三階建てはしたがって空《あ》いている室の方が多かった。少しの間融通しようと思えば、いつでも自分の自由になった。
 兄は兼《かね》てから下女に命じておいたものと見えて、室には麻の蒲団《ふとん》が差し向いに二枚、華奢《きゃしゃ》な煙草盆《たばこぼん》を間に、団扇《うちわ》さえ添えて据《す》えられてあった。自分は兄の前に坐った。けれども何と云い出して然《しか》るべきだか、その手加減がちょっと解らないので、ただ黙っていた。兄も容易に口を開かなかった。しかしこんな場合になると性質上きっと兄の方から積極的に出るに違いないと踏んだ自分は、わざと巻莨《まきたばこ》を吹かしつづけた。
 自分はこの時の自分の心理状態を解剖して、今から顧みると、兄に調戯《からか》うというほどでもないが、多少彼を焦《じ》らす気味でいたのはたしかであると自白せざるを得ない。もっとも自分がなぜそれほど兄に対して大胆になり得たかは、我ながら解らない。恐らく嫂の態度が知らぬ間に自分に乗り移っていたものだろう。自分は今になって、取り返す事も償《つぐな》う事もできないこの態度を深く懺悔《ざんげ》したいと思う。
 自分が巻莨を吹かして黙っていると兄ははたして「二郎」と呼びかけた。
「お前|直《なお》の性質が解ったかい」
「解りません」
 自分は兄の問の余りに厳格なため、ついこう簡単に答えてしまった。そうしてそのあまりに形式的なのに後から気がついて、悪かったと思い返したが、もう及ばなかった。
 兄はその後《のち》一口も聞きもせず、また答えもしなかった。二人こうして黙っている間が、自分には非常な苦痛であった。今考えると兄には、なおさらの苦痛であったに違ない。
「二郎、おれはお前の兄として、ただ解りませんという冷淡な挨拶《あいさつ》を受けようとは思わなかった」
 兄はこう云った。そうしてその声は低くかつ顫《ふる》えていた。彼は母の手前、宿の手前、また自分の手前と問題の手前とを兼ねて、高くなるべきはずの咽喉《のど》を、やっとの思いで抑えているように見えた。
「お前そんな冷淡な挨拶を一口したぎりで済むものと、高《たか》を括《くく》ってるのか、子供じゃあるまいし」
「いえけっしてそんなわけじゃありません」
 これだけの返事をした時の自分は真に純良なる弟であった。

        四十三

「そう云うつもりでなければ、つもりでないようにもっと詳《くわし》く話したら好いじゃないか」
 兄は苦《にが》り切って団扇《うちわ》の絵を見つめていた。自分は兄に顔を見られないのを幸いに、暗に彼の様子を窺《うかが》った。自分からこういうと兄を軽蔑《けいべつ》するようではなはだすまないが、彼の表情のどこかには、というよりも、彼の態度のどこかには、少し大人気《おとなげ》を欠いた稚気《ちき》さえ現われていた。今の自分はこの純粋な一本調子に対して、相応の尊敬を払う見地《けんち》を具《そな》えているつもりである。けれども人格のできていなかった当時の自分には、ただ向《むこう》の隙《すき》を見て事をするのが賢いのだという利害の念が、こんな問題にまでつけ纏《まつ》わっていた。
 自分はしばらく兄の様子を見ていた。そうしてこれは与《くみ》しやすいという心が起った。彼は癇癪《かんしゃく》を起している。彼は焦《じ》れ切っている。彼はわざとそれを抑えようとしている。全く余裕のないほど緊張している。しかし風船球のように軽く緊張している。もう少し待っていれば自分の力で破裂するか、または自分の力でどこかへ飛んで行くに相違ない。――自分はこう観察した。
 嫂《あによめ》が兄の手に合わないのも全くここに根ざしているのだと自分はこの時ようやく勘づいた。また嫂として存在するには、彼女の遣口《やりくち》が一番巧妙なんだろうとも考えた。自分は今日《こんにち》までただ兄の正面ばかり見て、遠慮したり気兼《きがね》したり、時によっては恐れ入ったりしていた。しかし昨日《きのう》一日一晩嫂と暮した経験は図《はか》らずもこの苦々《にがにが》しい兄を裏から甘く見る結果になって眼前に現われて来た。自分はいつ嫂から兄をこう見ろと教わった覚はなかった。けれども兄の前へ出て、これほど度胸の据《すわ》った事もまたなかった。自分は比較的すまして、団扇を見つめている兄の額のあたりをこっちでも見つめていた。
 すると兄が急に首を上げた。
「二郎何とか云わないか」と励《はげ》しい言葉を自分の鼓膜《こまく》に射込んだ。自分はその声でまたはっと平生の自分に返った。
「今云おうと思ってるところです。しかし事が複雑なだけに、何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。兄さんもほかの事たあ違うんだから、もう少し打ち解けてゆっくり聞いて下さらなくっちゃ。そう裁判所みたように生真面目《きまじめ》に叱りつけられちゃ、せっかく咽喉《のど》まで出かかったものも、辟易《へきえき》して引込んじまいますから」
 自分がこう云うと、兄はさすがに一見識《ひとけんしき》ある人だけあって、「ああそうかおれが悪かった。お前が性急《せっかち》の上へ持って来て、おれが癇癪持と来ているから、つい変にもなるんだろう。二郎、それじゃいつゆっくり話される。ゆっくり聞く事なら今でもおれにはできるつもりだが」と云った。
「まあ東京へ帰るまで待って下さい。東京へ帰るたって、あすの晩の急行だから、もう直《じき》です。その上で落ちついて僕の考えも申し上げたいと思ってますから」
「それでも好《い》い」
 兄は落ちついて答えた。今までの彼の癇癪《かんしゃく》を自分の信用で吹き払い得たごとくに。
「ではどうか、そう願います」と云って自分が立ちかけた時、兄は「ああ」と肯《うな》ずいて見せたが、自分が敷居を跨《また》ぐ拍子《ひょうし》に「おい二郎」とまた呼び戻した。
「詳《くわし》い事は追って東京で聞くとして、ただ一言《ひとこと》だけ要領を聞いておこうか」
「姉さんについて……」
「無論」
「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」
 自分がこう云った時、兄は急に色を変えた。けれども何にも云わなかった。自分はそれぎり席を立ってしまった。

        四十四

 自分はその時場合によれば、兄から拳骨《げんこつ》を食うか、または後《うしろ》から熱罵を浴《あび》せかけられる事と予期していた。色を変えた彼を後に見捨てて、自分の席を立ったくらいだから、自分は普通よりよほど彼を見縊《みくび》っていたに違なかった。その上自分はいざとなれば腕力に訴えてでも嫂《あによめ》を弁護する気概を十分|具《そな》えていた。これは
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