する事もできない。電灯の消えたのは、何でもここいら近所にある柱が一本とか二本とか倒れたためだってね」
「そうよ、そんな事を先刻《さっき》下女が云ったわね」
「御母さんと兄さんはどうしたでしょう」
「妾《あたし》も先刻からその事ばかり考えているの。しかしまさか浪《なみ》は這入《はい》らないでしょう。這入ったって、あの土手の松の近所にある怪しい藁屋《わらや》ぐらいなものよ。持ってかれるのは。もし本当の海嘯が来てあすこ界隈《かいわい》をすっかり攫《さら》って行くんなら、妾本当に惜しい事をしたと思うわ」
「なぜ」
「なぜって、妾そんな物凄《ものすご》いところが見たいんですもの」
「冗談じゃない」と自分は嫂の言葉をぶった切るつもりで云った。すると嫂は真面目に答えた。
「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首を縊《くく》ったり咽喉《のど》を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌《きらい》よ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」
 自分は小説などをそれほど愛読しない嫂から、始めてこんなロマンチックな言葉を聞いた。そうして心のうちでこれは全く神経の昂奮《こうふん》から来たに違いないと判じた。
「何かの本にでも出て来そうな死方ですね」
「本に出るか芝居でやるか知らないが、妾ゃ真剣にそう考えてるのよ。嘘《うそ》だと思うならこれから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、いっしょに飛び込んで御目にかけましょうか」
「あなた今夜は昂奮している」と自分は慰撫《なだ》めるごとく云った。
「妾の方があなたよりどのくらい落ちついているか知れやしない。たいていの男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。

        三十八

 自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。嫂《あによめ》はどこからどう押しても押しようのない女であった。こっちが積極的に進むとまるで暖簾《のれん》のように抵抗《たわい》がなかった。仕方なしにこっちが引き込むと、突然変なところへ強い力を見せた。その力の中《うち》にはとても寄りつけそうにない恐ろしいものもあった。またはこれなら相手にできるから進もうかと思って、まだ進みかねている中に、ふっと消えてしまうのもあった。自分は彼女と話している間|始終《しじゅう》彼女から翻弄《ほんろう》されつつあるような心持がした。不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。
 彼女は最後に物凄《ものすご》い決心を語った。海嘯《つなみ》に攫《さら》われて行きたいとか、雷火に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壮烈な最後を望んでいた。自分は平生から(ことに二人でこの和歌山に来てから)体力や筋力において遥《はるか》に優勢な位地に立ちつつも、嫂に対してはどことなく無気味な感じがあった。そうしてその無気味さがはなはだ狎《な》れやすい感じと妙に相伴っていた。
 自分は詩や小説にそれほど親しみのない嫂のくせに、何に昂奮《こうふん》して海嘯に攫われて死にたいなどと云うのか、そこをもっと突きとめて見たかった。
「姉さんが死ぬなんて事を云い出したのは今夜始めてですね」
「ええ口へ出したのは今夜が始めてかも知れなくってよ。けれども死ぬ事は、死ぬ事だけはどうしたって心の中で忘れた日はありゃしないわ。だから嘘《うそ》だと思うなら、和歌の浦まで伴《つ》れて行ってちょうだい。きっと浪の中へ飛込んで死んで見せるから」
 薄暗い行灯《あんどん》の下《もと》で、暴風雨《あらし》の音の間にこの言葉を聞いた自分は、実際物凄かった。彼女は平生から落ちついた女であった。歇私的里風《ヒステリふう》なところはほとんどなかった。けれども寡言《かげん》な彼女の頬は常に蒼《あお》かった。そうしてどこかの調子で眼の中に意味の強い解すべからざる光が出た。
「姉さんは今夜よっぽどどうかしている。何か昂奮している事でもあるんですか」
 自分は彼女の涙を見る事はできなかった。また彼女の泣き声を聞く事もできなかった。けれども今にもそこに至りそうな気がするので、暗い行灯《あんどん》の光を便《たよ》りに、蚊帳《かや》の中を覗《のぞ》いて見た。彼女は赤い蒲団《ふとん》を二枚重ねてその上に縁《ふち》を取った白麻《しろあさ》の掛蒲団を胸の所まで行儀よく掛けていた。自分が暗い灯《ひ》でその姿を覗《のぞ》き込んだ時、彼女は枕を動かして自分の方を見た。
「あなた昂奮昂奮って、よくおっしゃるけれども妾《あたし》ゃあなたよりいくら落ちついてるか解りゃしないわ。いつでも覚悟ができてるんですもの」
 自分は何と答うべき言葉も持たなかった。黙って二本目の敷島《しきしま》を暗い灯影《ほかげ》で吸い出した。自分はわが鼻と口から濛々《もうもう》と出る煙ばかりを眺めていた。自分はその間に気味のわるい眼を転じて、時々蚊帳の中を窺《うかが》った。嫂の姿は死んだように静であった。あるいはすでに寝ついたのではないかとも思われた。すると突然|仰向《あおむ》けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。
「何ですか」と自分は答えた。
「あなたそこで何をしていらっしゃるの」
「煙草を呑《の》んでるんです。寝られないから」
「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」
「ええ」
 自分は蚊帳の裾《すそ》を捲《ま》くって、自分の床の中に這入《はい》った。

        三十九

 翌日《よくじつ》は昨日《きのう》と打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。
「好い天気になりましたね」と自分は嫂《あによめ》に向って云った。
「本当《ほんと》ね」と彼女も答えた。
 二人はよく寝なかったから、夢から覚《さ》めたという心持はしなかった。ただ床を離れるや否や魔から覚めたという感じがしたほど、空は蒼《あお》く染められていた。
 自分は朝飯《あさめし》の膳《ぜん》に向いながら、廂《ひさし》を洩《も》れる明らかな光を見て、急に気分の変化に心づいた。したがって向い合っている嫂の姿が昨夕《ゆうべ》の嫂とは全く異なるような心持もした。今朝《けさ》見ると彼女の眼にどこといって浪漫的《ロマンてき》な光は射していなかった。ただ寝の足りない※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》が急に爽《さわや》かな光に照らされて、それに抵抗するのがいかにも慵《ものう》いと云ったような一種の倦怠《けた》るさが見えた。頬の蒼白《あおじろ》いのも常に変らなかった。
 我々はできるだけ早く朝飯を済まして宿を立った。電車はまだ通じないだろうという宿のものの注意を信用して俥《くるま》を雇った。車夫は土間から表に出た我々を一目見て、すぐ夫婦ものと鑑定したらしかった。俥に乗るや否や自分の梶棒《かじぼう》を先へ上げた。自分はそれをとめるように、「後《あと》から後から」と云った。車夫は心得て「奥さんの方が先だ」と相図した。嫂の俥が自分の傍《そば》を擦《す》り抜ける時、彼女は例の片靨《かたえくぼ》を見せて「御先へ」と挨拶《あいさつ》した。自分は「さあどうぞ」と云ったようなものの、腹の中では車夫の口にした奥さんという言葉が大いに気になった。嫂はそんな景色《けしき》もなく、自分を乗り越すや否や、琥珀《こはく》に刺繍《ぬい》のある日傘《ひがさ》を翳《かざ》した。彼女の後姿はいかにも涼しそうに見えた。奥さんと云われても云われないでも全く無関係の態度で、俥の上に澄まして乗っているとしか思われなかった。
 自分は嫂の後姿を見つめながら、また彼女の人となりに思い及んだ。自分は平生こそ嫂の性質を幾分かしっかり手に握っているつもりであったが、いざ本式に彼女の口から本当のところを聞いて見ようとすると、まるで八幡《やわた》の藪知《やぶし》らずへ這入《はい》ったように、すべてが解らなくなった。
 すべての女は、男から観察しようとすると、みんな正体の知れない嫂のごときものに帰着するのではあるまいか。経験に乏しい自分はこうも考えて見た。またその正体の知れないところがすなわち他の婦人に見出しがたい嫂《あによめ》だけの特色であるようにも考えて見た。とにかく嫂の正体は全く解らないうちに、空が蒼々《あおあお》と晴れてしまった。自分は気の抜けた麦酒《ビール》のような心持を抱いて、先へ行く彼女の後姿を絶えず眺めていた。
 突然自分は宿へ帰ってから嫂について兄に報告をする義務がまだ残っている事に気がついた。自分は何と報告して好いかよく解らなかった。云うべき言葉はたくさんあったけれども、それを一々兄の前に並べるのはとうてい自分の勇気ではできなかった。よし並べたって最後の一句は正体が知れないという簡単な事実に帰するだけであった。あるいは兄自身も自分と同じく、この正体を見届ようと煩悶《はんもん》し抜いた結果、こんな事になったのではなかろうか。自分は自分がもし兄と同じ運命に遭遇したら、あるいは兄以上に神経を悩ましはしまいかと思って、始めて恐ろしい心持がした。
 俥《くるま》が宿へ着いたとき、三階の縁側《えんがわ》には母の影も兄の姿も見えなかった。

        四十

 兄は三階の日に遠い室《へや》で例の黒い光沢《つや》のある頭を枕《まくら》に着けて仰向《あおむ》きになっていた。けれども眠ってはいなかった。むしろ充血した眼を見張るように緊張して天井《てんじょう》を見つめていた。彼は自分達の足音を聞くや否や、いきなりその血走った眼を自分と嫂に注いだ。自分は兼《かね》てからその眼つきを予想し得なかったほど兄を知らない訳でもなかった。けれども室の入口で嫂と相並んで立ちながら、昨夕《ゆうべ》まんじりともしなかったと自白しているような彼の赤くて鋭い眼つきを見た時は、少し驚かされた。自分はこういう場合の緩和剤《かんわざい》として例《いつも》の通り母を求めた。その母は座敷の中にも縁側にもどこにも見当らなかった。
 自分が彼女を探《さが》しているうちに嫂は兄の枕元に坐って挨拶《あいさつ》をした。
「ただいま」
 兄は何とも答えなかった。嫂はまた坐ったなりそこを動かなかった。自分は勢いとして口を開くべく余儀なくされた。
「昨夕こっちは大変な暴風雨《あらし》でしたってね」
「うんずいぶんひどい風だった」
「波があの石の土手を越して松並木から下へ流れ込んだの」
 これは嫂の言葉であった。兄はしばらく彼女の顔を眺めていた。それから徐《おもむ》ろに答えた。
「いやそうでもない。家に故障はなかったはずだ」
「じゃ。無理に帰れば帰れたのね」
 嫂はこう云って自分を顧みた。自分は彼女よりもむしろ兄の方に向いた。
「いやとても帰れなかったんです。電車がだいち通じないんですもの」
「そうかも知れない。昨日《きのう》は夕方あたりからあの波が非常に高く見えたから」
「夜中《よなか》に宅《うち》が揺れやしなくって」
 これも嫂《あによめ》の兄に聞いた問であった。今度は兄がすぐ答えた。
「揺れた。お母さんは危険だからと云って下へ降りて行かれたくらい揺れた」
 自分は兄の眼色の険悪な割合に、それほど殺気を帯びていない彼の言語動作をようよう確め得た時やっと安心した。彼は自分の性急《せっかち》に比べると約五倍がたの癇癪持《かんしゃくもち》であった。けれども一種|天賦《てんぷ》の能力があって、時にその癇癪を巧《たくみ》に殺す事ができた。
 その内に明神様《みょうじんさま》へ御参りに行った母が帰って来た。彼女は自分の顔を見てようやく安心したというような色をしてくれた。
「よく早く帰れて好かったね。――まあ昨夕《ゆうべ》の恐ろしさったら、そりゃ御話にも何にもならないんだよ、二郎。この柱がぎいぎいって鳴るたんびに、座敷が右左に動《いご》くんだろう。そこへ持って来て、あの浪《なみ》の音がね。――わたしゃ今聞いても本当にぞっとするよ……」
 母は昨夕の暴風雨《あらし》をひどく怖《こわ》がった。ことにその聯想《れんそう》から出る、防波堤《ぼうはてい》を砕きにかか
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