いじ》めぬいたらしい。けれどもその娘さんは一口も夫に対して自分の苦みを言わずに我慢していたのだね。その時の事が頭に祟《たた》っているから、離婚になった後《あと》でも旦那に云いたかった事を病気のせいで僕に云ったのだそうだ。――けれども僕はそう信じたくない。強《し》いてもそうでないと信じていたい」
「それほど君はその娘さんが気に入ってたのか」と自分はまた三沢に聞いた。
「気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなるほど」
「それから。――その娘さんは」
「死んだ。病院へ入《い》って」
 自分は黙然《もくねん》とした。
「君から退院を勧められた晩、僕はその娘さんの三回忌を勘定《かんじょう》して見て、単にそのためだけでも帰りたくなった」と三沢は退院の動機を説明して聞かせた。自分はまだ黙っていた。
「ああ肝心《かんじん》の事を忘れた」とその時三沢が叫んだ。自分は思わず「何だ」と聞き返した。
「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」
 三沢の口元には解ったろうと云う一種の微笑が見えた。二人はそれからじきに梅田の停車場《ステーション》へ俥《くるま》を急がした。場内は急行を待つ乗客です
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