い。ただ黙って欝《ふさ》ぎ込んでいるだけなんだから。ところがその娘さんが……」
三沢はここまで来て少し躊躇《ちゅうちょ》した。
「その娘さんがおかしな話をするようだけれども、僕が外出するときっと玄関まで送って出る。いくら隠れて出ようとしてもきっと送って出る。そうして必ず、早く帰って来てちょうだいねと云う。僕がええ早く帰りますからおとなしくして待っていらっしゃいと返事をすれば合点《がってん》合点をする。もし黙っていると、早く帰って来てちょうだいね、ね、と何度でも繰返す。僕は宅《うち》のものに対してきまりが悪くってしようがなかった。けれどもまたこの娘さんが不憫《ふびん》でたまらなかった。だから外出してもなるべく早く帰るように心がけていた。帰るとその人の傍《そば》へ行って、立ったままただいまと一言《ひとこと》必ず云う事にしていた」
三沢はそこへ来てまた時計を見た。
「まだ時間はあるね」と云った。
三十三
その時自分はこれぎりでその娘さんの話を止《や》められてはと思った。幸いに時間がまだだいぶあったので、自分の方から何とも云わない先に彼はまた語り続けた。
「宅のものが
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