て……」
三沢はこれぎり何にも云わなかった。自分も黙っているよりほかに仕方がなかった。二人はいつもより沈んで相対していた。看護婦はすでに帰った後《あと》なので、室《へや》の中はことに淋《さみ》しかった。今まで蒲団《ふとん》の上に胡坐《あぐら》をかいていた彼は急に倒れるように仰向《あおむき》に寝た。そうして上眼《うわめ》を使って窓の外を見た。外にはいつものように色の強い青空が、ぎらぎらする太陽の熱を一面に漲《みなぎ》らしていた。
「おい君」と彼はやがて云った。「よく君の話す例の男ね。あの男は金を持っていないかね」
自分は固《もと》より岡田の経済事情を知ろうはずがなかった。あの始末屋《しまつや》の御兼さんの事を考えると、金という言葉を口から出すのも厭《いや》だった。けれどもいざ三沢の出院となれば、そのくらいな手数《てかず》は厭《いと》うまいと、昨日《きのう》すでに覚悟をきめたところであった。
「節倹家だから少しは持ってるだろう」
「少しで好いから借りて来てくれ」
自分は彼が退院するについて会計へ払う入院料に困るのだと思った。それでどのくらい不足なのかを確めた。ところが事実は案外であっ
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