いた。けれどもすでに這入っている蚊はそのままなので、横になるや否や、時々額や鼻の頭の辺《あたり》でぶうんと云う小《ちいさ》い音がした。それでもうとうとと寝た。すると今度は右の方の部屋でする話声で眼が覚《さ》めた。聞いているとやはり男と女の声であった。自分はこっち側《がわ》に客は一人もいないつもりでいたので、ちょっと驚かされた。しかし女が繰返《くりかえ》して、「そんならもう帰して貰いますぜ」というような言葉を二三度用いたので、隣の客が女に送られて茶屋からでも帰って来たのだろうと推察してまた眠りに落ちた。
それからもう一度下女が雨戸を引く音に夢を破られて、最後に起き上ったのが、まだ川の面《おもて》に白い靄《もや》が薄く見える頃だったから、正味《しょうみ》寝たのは何時間にもならなかった。
十五
三沢の氷嚢《ひょうのう》は依然としてその日も胃の上に在《あ》った。
「まだ氷で冷やしているのか」
自分はいささか案外な顔をしてこう聞いた。三沢にはそれが友達|甲斐《がい》もなく響いたのだろう。
「鼻風邪《はなかぜ》じゃあるまいし」と云った。
自分は看護婦の方を向いて、「昨夕
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