おもて》に鋭い針の先が触れたようであった。
「もう帰りましょう。――二郎さん御迷惑でしたろうこんな厭《いや》な話を聞かせて。妾《あたし》今まで誰にもした事はないのよ、こんな事。今日自分の宅《うち》へ行ってさえ黙ってるくらいですもの」
 上《あが》り口に待っていた車夫の提灯《ちょうちん》には彼女の里方《さとかた》の定紋《じょうもん》が付いていた。

        五

 その晩は静かな雨が夜通し降った。枕を叩《たた》くような雨滴《あまだれ》の音の中に、自分はいつまでも嫂《あによめ》の幻影《まぼろし》を描いた。濃《こ》い眉《まゆ》とそれから濃い眸子《ひとみ》、それが眼に浮ぶと、蒼白《あおしろ》い額や頬は、磁石《じしゃく》に吸いつけられる鉄片《てっぺん》の速度で、すぐその周囲《まわり》に反映した。彼女の幻影は何遍も打ち崩《くず》された。打ち崩されるたびに復《また》同じ順序がすぐ繰返された。自分はついに彼女の唇《くちびる》の色まで鮮かに見た。その唇の両端《りょうはし》にあたる筋肉が声に出ない言葉の符号《シンボル》のごとく微《かす》かに顫動《せんどう》するのを見た。それから、肉眼の注意を逃れよ
前へ 次へ
全520ページ中372ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング