いつけたのを傍《そば》にいて聞いていた事がある。自分はぼんやりしながらも、兄のこの眼附によって、和服の不断着より、嫂と芳江とを彼は待ち設けていたのだと覚《さと》った。
自分は寝惚《ねぼ》けた心持が有ったればこそ、平気で彼の室を突然開けたのだが、彼は自分の姿を敷居の前に見て、少しも怒《いか》りの影を現さなかった。しかしただ黙って自分の背広姿《せびろすがた》を打ち守るだけで、急に言葉を出す気色《けしき》はなかった。
「兄さん、ちょっと御話がありますが……」
と、自分はついにこっちから切り出した。
「こっちへ御這入り」
彼の言語は落ちついていた。かつこの間の事について何の介意《かいい》をも含んでいないらしく自分の耳に響いた。彼は自分のために、わざわざ一脚の椅子を己れの前へ据《す》えて、自分を麾《さしま》ねいた。
自分はわざと腰をかけずに、椅子の背に手を載せたまま、父や母に云ったとほぼ同様の挨拶《あいさつ》を述べた。兄は尊敬すべき学者の態度で、それを静かに聞いていた。自分の単簡《たんかん》の説明が終ると、彼は嬉《うれ》しくも悲しくもない常の来客に応接するような態度で「まあそこへおかけ」と
前へ
次へ
全520ページ中317ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング