ま》じさを見る遑《いとま》がなかった。自分の頭はまだ経験した事のない海嘯《つなみ》というものに絶えず支配された。でなければ、意地の悪い天候のお蔭で、自分が兄の前で一徹に退《しりぞ》けた事を、どうしても実行しなければならなくなった運命をつらく観《かん》じた。自分の頭は落ちついて想像したり観じたりするほどの余裕を無論もたなかった。ただ乱雑な火事場のように取留めもなくくるくる廻転した。
 そのうち俥《くるま》の梶棒《かじぼう》が一軒の宿屋のような構《かまえ》の門口へ横づけになった。自分は何だか暖簾《のれん》を潜《くぐ》って土間へ這入《はい》ったような気がしたがたしかには覚えていない。土間は幅の割に竪《たて》からいってだいぶ長かった。帳場も見えず番頭もいず、ただ一人の下女が取次に出ただけで、宵《よい》の口としては至って淋《さみ》しい光景であった。
 自分達は黙ってそこに突立っていた。自分はなぜだか嫂に話したくなかった。彼女も澄まして絹張の傘《かさ》の先を斜《ななめ》に土間に突いたなりで立っていた。
 下女の案内で二人の通された部屋は、縁側《えんがわ》を前に御簾《みす》のような簀垂《すだれ》を軒
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