崩《くず》さない、円満な好侶伴《こうりょはん》であった。だから彼の朋友はことごとく彼を穏《おだや》かな好い人物だと信じていた。父や母はその評判を聞くたびに案外な顔をした。けれどもやっぱり自分の子だと見えて、どこか嬉《うれ》しそうな様子が見えた。兄と衝突している時にこんな評判でも耳に入ろうものなら、自分はむやみに腹が立った。一々その人の宅《うち》まで出かけて行って、彼らの誤解を訂正してやりたいような気さえ起った。
 和歌の浦行に母がすぐ賛成したのも、実は彼女が兄の気性《きしょう》をよく呑み込んでいるからだろうと自分は思った。母は長い間わが子の我《が》を助けて育てるようにした結果として、今では何事によらずその我《が》の前に跪《ひざまず》く運命を甘んじなければならない位地《いち》にあった。
 自分は便所に立った時、手水鉢《ちょうずばち》の傍《そば》にぼんやり立っていた嫂《あによめ》を見付《めっ》けて、「姉さんどうです近頃は。兄さんの機嫌《きげん》は好い方なんですか悪い方なんですか」と聞いた。嫂は「相変らずですわ」とただ一口答えただけであった。嫂はそれでも淋《さみ》しい頬に片靨《かたえくぼ》を
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