いつけたのを傍《そば》にいて聞いていた事がある。自分はぼんやりしながらも、兄のこの眼附によって、和服の不断着より、嫂と芳江とを彼は待ち設けていたのだと覚《さと》った。
 自分は寝惚《ねぼ》けた心持が有ったればこそ、平気で彼の室を突然開けたのだが、彼は自分の姿を敷居の前に見て、少しも怒《いか》りの影を現さなかった。しかしただ黙って自分の背広姿《せびろすがた》を打ち守るだけで、急に言葉を出す気色《けしき》はなかった。
「兄さん、ちょっと御話がありますが……」
と、自分はついにこっちから切り出した。
「こっちへ御這入り」
 彼の言語は落ちついていた。かつこの間の事について何の介意《かいい》をも含んでいないらしく自分の耳に響いた。彼は自分のために、わざわざ一脚の椅子を己れの前へ据《す》えて、自分を麾《さしま》ねいた。
 自分はわざと腰をかけずに、椅子の背に手を載せたまま、父や母に云ったとほぼ同様の挨拶《あいさつ》を述べた。兄は尊敬すべき学者の態度で、それを静かに聞いていた。自分の単簡《たんかん》の説明が終ると、彼は嬉《うれ》しくも悲しくもない常の来客に応接するような態度で「まあそこへおかけ」と云った。
 彼は黒いモーニングを着て、あまり好い香《におい》のしない葉巻を燻《くゆ》らしていた。
「出るなら出るさ。お前ももう一人前《いちにんまえ》の人間だから」と云ってしばらく煙ばかり吐いていた。それから「しかしおれがお前を出したように皆《みん》なから思われては迷惑だよ」と続けた。「そんな事はありません。ただ自分の都合で出るんですから」と自分は答えた。
 自分の寝惚《ねぼ》けた頭はこの時しだいに冴《さ》えて来た。できるだけ早く兄の前から退《しりぞ》きたくなった結果、ふり返って室の入口を見た。
「直《なお》も芳江も今湯に這入っているようだから、誰も上がって来やしない。そんなにそわそわしないでゆっくり話すが好い、電灯でも点《つ》けて」
 自分は立ち上がって、室《へや》の内を明るくした。それから、兄の吹かしている葉巻を一本取って火を点《つ》けた。
「一本八銭だ。ずいぶん悪い煙草だろう」と彼が云った。

        二十七

「いつ出るつもりかね」と兄がまた聞いた。
「今度の土曜あたりにしようかと思ってます」と自分は答えた。
「一人出るのかい」と兄がまた聞いた。
 この奇異な質問を受けた時、自分はしばらく茫然《ぼうぜん》として兄の顔を打ち守っていた。彼がわざとこう云う失礼な皮肉を云うのか、そうでなければ彼の頭に少し変調を来《きた》したのか、どっちだか解らないうちは、自分にもどの見当《けんとう》へ打って出て好いものか、料簡《りょうけん》が定まらなかった。
 彼の言葉は平生から皮肉《ひにく》たくさんに自分の耳を襲った。しかしそれは彼の智力が我々よりも鋭敏に働き過ぎる結果で、その他に悪気のない事は、自分によく呑み込めていた。ただこの一言《いちごん》だけは鼓膜《こまく》に響いたなり、いつまでもそこでじんじん熱く鳴っていた。
 兄は自分の顔を見て、えへへと笑った。自分はその笑いの影にさえ歇斯的里性《ヒステリせい》の稲妻《いなずま》を認めた。
「無論一人で出る気だろう。誰も連れて行く必要はないんだから」
「もちろんです。ただ一人になって、少し新しい空気を吸いたいだけです」
「新しい空気はおれも吸いたい。しかし新しい空気を吸わしてくれる所は、この広い東京に一カ所もない」
 自分は半《なか》ばこの好んで孤立している兄を憐《あわ》れんだ。そうして半ば彼の過敏な神経を悲しんだ。
「ちっと旅行でもなすったらどうです。少しは晴々《せいせい》するかも知れません」
 自分がこう云った時、兄はチョッキの隠袋《かくし》から時計を出した。
「まだ食事の時間には少し間があるね」と云いながら、彼は再び椅子《いす》に腰を落ちつけた。そうして「おい二郎もうそうたびたび話す機会もなくなるから、飯ができるまでここで話そうじゃないか」と自分の顔を見た。
 自分は「ええ」と答えたが、少しも尻《しり》は坐《すわ》らなかった。その上何も話す種がなかった。すると兄が突然「お前パオロとフランチェスカの恋を知ってるだろう」と聞いた。自分は聞いたような、聞かないような気がするので、すぐとは返事もできなかった。
 兄の説明によると、パオロと云うのはフランチェスカの夫の弟で、その二人が夫の眼を忍んで、互に慕《した》い合った結果、とうとう夫に見つかって殺されるという悲しい物語りで、ダンテの神曲の中とかに書いてあるそうであった。自分はその憐れな物語に対する同情よりも、こんな話をことさらにする兄の心持について、一種|厭《いや》な疑念を挟《さしは》さんだ。兄は臭《くさ》い煙草の煙の間から、始終《しじゅう》自分の顔を見つめ
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