対して怒《おこ》り得るほどの勇気を持っていなかった。怒り得るならば、この間|罵《のの》しられて彼の書斎を出るとき、すでに激昂《げっこう》していなければならなかった。自分は後《うしろ》から小さな石膏像《せっこうぞう》の飛んでくるぐらいに恐れを抱く人間ではなかった。けれどもあの時に限って、怒るべき勇気の源がすでに枯れていたような気がする。自分は室に入《い》った幽霊が、ふうとまた室を出るごとくに力なく退却した。その後も彼の書斎の扉《ドア》を叩《たた》いて、快く詫《あや》まるだけの度胸は、どこからも出て来なかった。かくして自分は毎日|苦《にが》い顔をしている彼の顔を、晩餐《ばんさん》の食卓に見るだけであった。
嫂《あによめ》とも自分は近頃|滅多《めった》に口を利《き》かなかった。近頃というよりもむしろ大阪から帰って後《のち》という方が適当かも知れない。彼女は単独に自分の箪笥《たんす》などを置いた小《ち》さい部屋の所有主であった。しかしながら彼女と芳江が二人ぎりそこに遊んでいる事は、一日中で時間につもるといくらもなかった。彼女はたいてい母と共に裁縫その他の手伝をして日を暮していた。
父や母に自分の未来を打ち明けた明《あく》る朝、便所から風呂場へ通う縁側《えんがわ》で、自分はこの嫂にぱたりと出会った。
「二郎さん、あなた下宿なさるんですってね。宅《うち》が厭《いや》なの」と彼女は突然聞いた。彼女は自分の云った通りを、いつの間にか母から伝えられたらしい言葉遣《ことばづかい》をした。自分は何気なく「ええしばらく出る事にしました」と答えた。
「その方が面倒でなくって好いでしょう」
彼女は自分が何か云うかと思って、じっと自分の顔を見ていた。しかし自分は何とも云わなかった。
「そうして早く奥さんをお貰いなさい」と彼女の方からまた云った。自分はそれでも黙っていた。
「早い方が好いわよあなた。妾《あたし》探して上げましょうか」とまた聞いた。
「どうぞ願います」と自分は始めて口を開いた。
嫂は自分を見下《みさ》げたようなまた自分を調戯《からか》うような薄笑いを薄い唇《くちびる》の両端に見せつつ、わざと足音を高くして、茶の間の方へ去った。
自分は黙って、風呂場と便所の境にある三和土《たたき》の隅《すみ》に寄せ掛けられた大きな銅の金盥《かなだらい》を見つめた。この金盥は直径二尺以上もあって自分の力で持上げるのも困難なくらい、重くてかつ大きなものであった。自分は子供の時分からこの金盥を見て、きっと大人《おとな》の行水《ぎょうずい》を使うものだとばかり想像して、一人|嬉《うれ》しがっていた。金盥は今|塵《ちり》で佗《わび》しく汚れていた。低い硝子戸越《ガラスどご》しには、これも自分の子供時代から忘れ得ない秋海棠《しゅうかいどう》が、変らぬ年ごとの色を淋《さみ》しく見せていた。自分はこれらの前に立って、よく秋先《あきさき》に玄関前の棗《なつめ》を、兄と共に叩《たた》き落して食った事を思い出した。自分はまだ青年だけれども、自分の背後にはすでにこれだけ無邪気な過去がずっと続いている事を発見した時、今昔の比較が自《おのず》から胸に溢《あふ》れた。そうしてこれからこの餓鬼大将《がきだいしょう》であった兄と不愉快な言葉を交換して、わが家を出なければならないという変化に想《おも》い及んだ。
二十六
その日自分が事務所から帰ってお重に「兄さんは」と聞くと、「まだよ」という返事を得た。
「今日はどこかへ廻る日なのかね」と重《かさ》ねて尋ねた時、お重は「どうだか知らないわ。書斎へ行って壁に貼《は》りつけてある時間表を見て来て上げましょうか」と云った。
自分はただ兄が帰ったら教えてくれるように頼んで、誰にも会わずに室《へや》へ這入《はい》った。洋服を脱《ぬ》ぎ替えるのも面倒なので、そのまま横になって寝ているうち、いつの間にか本当の眠りに落ちた。そうして他人に説明も何もできないような複雑に変化する不安な夢に襲われていると、急にお重から起された。
「大兄《おおにい》さんがお帰りよ」
こういう彼女の言葉が耳に這入った時、自分はすぐ起ち上がった。けれども意識は朦朧《もうろう》として、夢のつづきを歩いていた。お重は後《うしろ》から「まあ顔でも洗っていらっしゃい」と注意した。判然《はっきり》しない自分の意識は、それすらあえてする勇気を必要と感ぜしめなかった。
自分はそのまま兄の書斎に這入った。兄もまだ洋服のままであった。彼は扉《ドア》の音を聞いて、急に入口に眼を転じた。その光のうちにはある予期を明かに示していた。彼が外出して帰ると、嫂《あによめ》が芳江を連れて、不断の和服を持って上がって来るのが、その頃の習慣であった。自分は母が嫂に「こういう風におしよ」と云
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