まど》ぐらいは、現在の収入でどうかこうか維持して行かれる地位なのだから、かねてから、そういう考えはちらちらと無頓着《むとんじゃく》な自分の頭をさえ横切ったのである。
自分は母に対して、「ええ外へ出る事なんか訳はありません。明日《あした》からでも出ろとおっしゃれば出ます。しかし嫁の方はそうちんころ[#「ちんころ」に傍点]のように、何でも構わないから、ただ路に落ちてさえいれば拾って来るというような遣口《やりくち》じゃ僕には不向《ふむき》ですから」と云った。その時母は、「そりゃ無論……」と答えようとするのを自分はわざと遮《さえぎ》った。
「御母さんの前ですが、兄さんと姉さんの間ですね。あれにはいろいろ複雑な事情もあり、また僕が固《もと》から少し姉さんと知り合だったので、御母さんにも御心配をかけてすまないようですけれども、大根《おおね》をいうとね。兄さんが学問以外の事に時間を費《ついや》すのが惜《おし》いんで、万事|人任《ひとまか》せにしておいて、何事にも手を出さずに華族然と澄ましていたのが悪いんですよ。いくら研究の時間が大切だって、学校の講義が大事だって、一生同じ所で同じ生活をしなくっちゃならない吾《わ》が妻じゃありませんか。兄さんに云わしたらまた学者相応の意見もありましょうけれども学者以下の我々にはとてもあんな真似はできませんからね」
自分がこんな下らない理窟《りくつ》を云い募《つの》っているうちに、母の眼にはいつの間にか涙らしい光の影が、だんだん溜《たま》って来たので、自分は驚いてやめてしまった。
自分は面《つら》の皮が厚いというのか、遠慮がなさ過ぎると云うのか、それほど宅《うち》のものが気兼《きがね》をして、云わば敬して遠ざけているような兄の書斎の扉《ドア》を他《ひと》よりもしばしば叩《たた》いて話をした。中へ這入《はい》った当分の感じは、さすがの自分にも少し応《こた》えた。けれども十分ぐらい経《た》つと彼はまるで別人のように快活になった。自分は苦《にが》い兄の心機をこう一転させる自分の手際《てぎわ》に重きをおいて、あたかも己《おの》れの虚栄心を満足させるための手段らしい態度をもって、わざわざ彼の書斎へ出入《でいり》した事さえあった。自白すると、突然兄から捕《つら》まって危く死地に陥《おとしい》れられそうになったのも、実はこういう得意の瞬間であった。
二十一
その折自分は何を話ていたか今たしかに覚えていない。何でも兄から玉突《たまつき》の歴史を聞いた上、ルイ十四世頃の銅版の玉突台をわざわざ見せられたような気がする。
兄の室《へや》へ這入っては、こんな問題を種に、彼の新しく得た知識を、はいはい聞いているのが一番安全であった。もっとも自分も御饒舌《おしゃべり》だから、兄と違った方面で、ルネサンスとかゴシックとかいう言葉を心得顔にふり廻す事も多かった。しかしたいていは世間離れのしたこう云う談話だけで書斎を出るのが例であったが、その折は何かの拍子《ひょうし》で兄の得意とする遺伝とか進化とかについての学説が、銅版の後で出て来た。自分は多分云う事がないため、黙って聞いていたものと見える。その時兄が「二郎お前はお父さんの子だね」と突然云った。自分はそれがどうしたと云わぬばかりの顔をして、「そうです」と答えた。
「おれはお前だから話すが、実はうちのお父さんには、一種妙におっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]のところがあるじゃないか」
兄から父を評すれば正にそうであるという事を自分は以前から呑込《のみこ》んでいた。けれども兄に対してこの場合何と挨拶《あいさつ》すべきものか自分には解らなかった。
「そりゃあなたのいう遺伝とか性質とかいうものじゃおそらくないでしょう。今の日本の社会があれでなくっちゃ、通させないから、やむをえないのじゃないですか。世の中にゃお父さんどころかまだまだたまらないおっちょこ[#「おっちょこ」に傍点]がありますよ。兄さんは書斎と学校で高尚に日を暮しているから解らないかも知れないけれども」
「そりゃおれも知ってる。お前の云う通りだ。今の日本の社会は――ことによったら西洋もそうかも知れないけれども――皆《みん》な上滑《うわすべ》りの御上手ものだけが存在し得るように出来上がっているんだから仕方がない」
兄はこう云ってしばらく沈黙の裡《うち》に頭を埋《うず》めていた。それから怠《だる》そうな眼を上げた。
「しかし二郎、お父さんのは、お気の毒だけれども、持って生れた性質なんだよ。どんな社会に生きていても、ああよりほかに存在の仕方はお父さんに取ってむずかしいんだね」
自分はこの学問をして、高尚になり、かつ迂濶《うかつ》になり過ぎた兄が、家中《うちじゅう》から変人扱いにされるのみならず、親身の
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