い顔をして父を見ていた。父は何という意味か、両手で長い頬を二度ほど撫《な》でた。
「この席でこんな御話をするのは少し憚《はばか》りがあるが」と兄が云った。自分はどんな議論が彼の口から出るか、次第によっては途中からその鉾先《ほこさき》を、一座の迷惑にならない方角へ向易《むけか》えようと思って聞いていた。すると彼はこう続けた。
「男は情慾を満足させるまでは、女よりも烈《はげ》しい愛を相手に捧《ささ》げるが、いったん事が成就《じょうじゅ》するとその愛がだんだん下り坂になるに反して、女の方は関係がつくとそれからその男をますます慕《した》うようになる。これが進化論から見ても、世間の事実から見ても、実際じゃなかろうかと思うのです。それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか」
「妙な御話ね。妾《あたし》女だからそんなむずかしい理窟《りくつ》は知らないけれども、始めて伺ったわ。ずいぶん面白い事があるのね」
嫂《あによめ》がこう云った時、自分は客に見せたくないような厭《いや》な表情を兄の顔に見出したので、すぐそれをごまかすため何か云って見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。
「そりゃ学理から云えばいろいろ解釈がつくかも知れないけれども、まあ何だね、実際はその女が厭になったに相違ないとしたところで、当人|面喰《めんく》らったんだね、まず第一に。その上|小胆《しょうたん》で無分別で正直と来ているから、それほど厭でなくっても断りかねないのさ」
父はそう云ったなり洒然《しゃぜん》としていた。
床《とこ》の前に謡本を置いていた一人の客が、その時父の方を向いてこう云った。
「しかし女というものはとにかく執念深《しゅうねんぶか》いものですね。二十何年もその事を胸の中に畳込んでおくんですからね。全くのところあなたは好い功徳《くどく》をなすった。そう云って安心させてやればその眼の見えない女のためにどのくらい嬉《うれ》しかったか解りゃしません」
「そこがすべての懸合事《かけあいごと》の気転ですな。万事そうやれば双方のためにどのくらい都合が好いか知れんです」
他の客が続いてこう云った時、父は「いやどうも」と頭を掻《か》いて「実は今云った通り最初はね、そのくらいな事じゃなかなか疑《うたぐ》りが解けないんで、私も少々弱らせられました。それをいろいろに光沢《つや》をつけたり、出鱈目《でたらめ》を拵《こしら》えたりして、とうとう女を納得させちまったんですが、ずいぶん骨が折れましたよ」と少し得意気であった。
やがて客は謡本を風呂敷に包んで露《つゆ》に濡《ぬ》れた門を潜《くぐ》って出た。皆《みん》な後《あと》で世間話をしているなかに、兄だけはむずかしい顔をして一人書斎に入った。自分は例のごとく冷《ひやや》かに重い音をさせる上草履《スリッパー》の音を一つずつ聞いて、最後にどんと締まる扉《ドア》の響に耳を傾けた。
二十
二三週間はそれなり過ぎた。そのうち秋がだんだん深くなった。葉鶏頭《はげいとう》の濃い色が庭を覗《のぞ》くたびに自分の眼に映った。
兄は俥《くるま》で学校へ出た。学校から帰るとたいていは書斎へ這入《はい》って何かしていた。家族のものでも滅多《めった》に顔を合わす機会はなかった。用があるとこっちから二階に上《のぼ》って、わざわざ扉を開けるのが常になっていた。兄はいつでも大きな書物の上に眼を向けていた。それでなければ何か万年筆で細かい字を書いていた。一番我々の眼についたのは、彼の茫然《ぼうぜん》として洋机《テーブル》の上に頬杖《ほおづえ》を突いている時であった。
彼は一心に何か考えているらしかった。彼は学者でかつ思索家であるから、黙って考えるのは当然の事のようにも思われたが、扉を開けてその様子を見た者は、いかにも寒い気がすると云って、用を済ますのを待ち兼ねて外へ出た。最も関係の深い母ですら、書斎へ行くのをあまりありがたいとは思っていなかったらしい。
「二郎、学者ってものは皆《みん》なあんな偏屈《へんくつ》なものかね」
この問を聞いた時、自分は学者でないのを不思議な幸福のように感じた。それでただえへへと笑っていた。すると母は真面目《まじめ》な顔をして、「二郎、御前がいなくなると、宅《うち》は淋《さむ》しい上にも淋しくなるが、早く好い御嫁さんでも貰って別になる工面《くめん》を御為《おし》よ」と云った。自分には母の言葉の裏に、自分さえ新しい家庭を作って独立すれば、兄の機嫌《きげん》が少しはよくなるだろうという意味が明らさまに読まれた。自分は今でも兄がそんな妙な事を考えているのだろうかと疑《うたぐ》っても見た。しかし自分もすでに一家を成してしかるべき年輩だし、また小さい一軒の竈《か
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