たが、この様子を見て、ちょっと筆を留めた。
「お重また怒ったな。――佐野さんはね、この間云った通り金縁眼鏡《きんぶちめがね》をかけたお凸額《でこ》さんだよ。それで好いじゃないか。何遍聞いたって同《おんな》じ事だ」
「お凸額《でこ》や眼鏡は写真で充分だわ。何も兄さんから聞かないだって妾《あたし》知っててよ。眼があるじゃありませんか」
 彼女はまだ打ち解けそうな口の利《き》き方をしなかった。自分は静かに端書《はがき》と筆を机の上へ置いた。
「全体何を聞こうと云うのだい」
「全体あなたは何を研究していらしったんです。佐野さんについて」
 お重という女は議論でもやり出すとまるで自分を同輩のように見る、癖《くせ》だか、親しみだか、猛烈な気性《きしょう》だか、稚気《ちき》だかがあった。
「佐野さんについてって……」と自分は聞いた。
「佐野さんの人《ひと》となりについてです」
 自分は固《もと》よりお重を馬鹿にしていたが、こういう真面目《まじめ》な質問になると、腹の中でどっしりした何物も貯えていなかった。自分はすまして巻煙草《まきたばこ》を吹かし出した。お重は口惜《くや》しそうな顔をした。
「だって余《あん》まりじゃありませんか、お貞さんがあんなに心配しているのに」
「だって岡田がたしかだって保証するんだから、好いじゃないか」
「兄さんは岡田さんをどのくらい信用していらっしゃるんです。岡田さんはたかが将棋の駒じゃありませんか」
「顔は将棋の駒だって何だって……」
「顔じゃありません。心が浮いてるんです」
 自分は面倒と癇癪《かんしゃく》でお重を相手にするのが厭《いや》になった。
「お重御前そんなにお貞さんの事を心配するより、自分が早く嫁にでも行く工夫をした方がよっぽど利口だよ。お父さんやお母さんは、お前が片づいてくれる方をお貞さんの結婚よりどのくらい助かると思っているか解りゃしない。お貞さんの事なんかどうでもいいから、早く自分の身体《からだ》の落ちつくようにして、少し親孝行でも心がけるが好い」
 お重ははたして泣き出した。自分はお重と喧嘩《けんか》をするたびに向うが泣いてくれないと手応《てごたえ》がないようで、何だか物足らなかった。自分は平気で莨《たばこ》を吹かした。
「じゃ兄さんも早くお嫁を貰《もら》って独立したら好いでしょう。その方が妾が結婚するよりいくら親孝行になるか知れやしない。厭に嫂《ねえ》さんの肩ばかり持って……」
「お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」
「当前《あたりまえ》ですわ。大兄《おおにい》さんの妹ですもの」

        九

 自分は三沢へ端書《はがき》を書いた後《あと》で、風呂から出立《でたて》の頬に髪剃《かみそり》をあてようと思っていた。お重を相手にぐずぐずいうのが面倒になったのを好い幸いに、「お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか」と頼んだ。お重は嗽茶碗《うがいぢゃわん》どころの騒ぎではないらしかった。それよりまだ十倍も厳粛な人生問題を考えているもののごとく澄まして膨《ふく》れていた。自分はお重に構わず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰った。それから机の上へ旅行用の鏡を立てて、象牙《ぞうげ》の柄《え》のついた髪剃《かみそり》を並べて、熱湯で濡《ぬ》らした頬をわざと滑稽《こっけい》に膨《ふく》らませた。
 自分が物新しそうにシェーヴィング・ブラッシを振り廻して、石鹸《シャボン》の泡で顔中を真白にしていると、先刻《さっき》から傍《そば》に坐ってこの様子を見ていたお重は、ワッと云う悲劇的な声をふり上げて泣き出した。自分はお重の性質として、早晩ここに来るだろうと思って、暗《あん》にこの悲鳴を予期していたのである。そこでますます頬《ほっ》ぺたに空気をいっぱい入れて、白い石鹸をすうすうと髪剃の刃で心持よさそうに落し始めた。お重はそれを見て業腹《ごうはら》だか何だかますます騒々しい声を立てた。しまいに「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。自分はお重を馬鹿にしていたには違ないが、この鋭い声には少し驚かされた。
「何だ」
「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私はあなたの妹です。嫂《ねえ》さんはいくらあなたが贔屓《ひいき》にしたって、もともと他人じゃありませんか」
 自分は髪剃を下へ置いて、石鹸だらけの頬をお重の方に向けた。
「お重お前は逆《のぼ》せているよ。お前がおれの妹で、嫂さんが他家《よそ》から嫁に来た女だぐらいは、お前に教わらないでも知ってるさ」
「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたような方《かた》をお貰《もら》いなすったら好いじゃありませんか」
 自分は平手《ひらて》でお重の頭を一つ張りつけてやりたかった。けれども家中騒ぎ廻られ
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