立ってしまった。
 自分は彼女の後姿《うしろすがた》を見て笑い出した。兄は反対に苦《にが》い顔をした。
「二郎お前がむやみに調戯《からか》うからいけない。ああ云う乙女《おぼこ》にはもう少しデリカシーの籠《こも》った言葉を使ってやらなくっては」
「二郎はまるで堂摺連《どうするれん》と同じ事だ」と父が笑うようなまた窘《たし》なめるような句調で云った。母だけは一人不思議な顔をしていた。
「なに二郎がね。お貞さんの顔さえ見ればおめでとうだの嬉しい事がありそうだのって、いろいろの事を云うから、向うでも恥かしがるんです。今も二階で顔を赤くさせたばかりのところだもんだから、すぐ逃げ出したんです。お貞さんは生れつきからして直《なお》とはまるで違ってるんだから、こっちでもそのつもりで注意して取り扱ってやらないといけません……」
 兄の説明を聞いた母は始めてなるほどと云ったように苦笑した。もう食事を済ましていた嫂は、わざと自分の顔を見て変な眼遣《めづかい》をした。それが自分には一種の相図のごとく見えた。自分は父から評された通りだいぶ堂摺連の傾きを持っていたが、この時は父や母に憚《はばか》って、嫂の相図を返す気は毫《ごう》も起らなかった。
 嫂は無言のまますっと立った、室《へや》の出口でちょっと振り返って芳江を手招きした。芳江もすぐ立った。
「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重が聞いた。芳江はそこに立ったまま、どうしたものだろうかと思案する様子に見えた。嫂は「おや芳江さん来ないの」とさもおとなしやかに云って廊下の外へ出た。今まで躊躇《ちゅうちょ》していた芳江は、嫂の姿が見えなくなるや否や急に意を決したもののごとく、ばたばたとその後《あと》を追駈《おいか》けた。
 お重は彼女の後姿《うしろすがた》をさも忌々《いまいま》しそうに見送った。父と母は厳格な顔をして己《おの》れの皿の中を見つめていた。お重は兄を筋違《すじか》いに見た。けれども兄は遠くの方をぼんやり眺めていた。もっとも彼の眉根《まゆね》には薄く八の字が描かれていた。
「兄さん、そのプッジングを妾《あたし》にちょうだい。ね、好いでしょう」とお重が兄に云った。兄は無言のまま皿をお重の方に押《おし》やった。お重も無言のままそれを匙《スプーン》で突《つっ》ついたが、自分から見ると、食べたくない物を業腹《ごうはら》で食べているとしか思われなかった。
 兄が席を立って書斎に入《い》ったのはそれからしてしばらく後《のち》の事であった。自分は耳を峙《そばだ》てて彼の上靴《スリッパ》が静《しずか》に階段を上《のぼ》って行く音を聞いた。やがて上の方で書斎の戸《ドア》がどたんと閉まる声がして、後は静になった。
 東京へ帰ってから自分はこんな光景をしばしば目撃した。父もそこには気がついているらしかった。けれども一番心配そうなのは母であった。彼女は嫂《あによめ》の態度を見破って、かつ容赦の色を見せないお重を、一日も早く片づけて若い女同士の葛藤《かっとう》を避けたい気色《けしき》を色にも顔にも挙動にも現した。次にはなるべく早く嫁を持たして、兄夫婦の間から自分という厄介《やっかい》ものを抜き去りたかった。けれども複雑な世の中は、そう母の思うように旨《うま》く回転してくれなかった。自分は相変らず、のらくらしていた。お重はますます嫂を敵《かたき》のように振舞った。不思議に彼女は芳江を愛した。けれどもそれは嫂のいない留守に限られていた。芳江も嫂のいない時ばかりお重に縋《すが》りついた。兄の額には学者らしい皺《しわ》がだんだん深く刻《きざ》まれて来た。彼はますます書物と思索の中に沈んで行った。

        八

 こんな訳で、母の一番軽く見ていたお貞さんの結婚が最初にきまったのは、彼女の思わくとはまるで反対であった。けれども早晩《いつか》片づけなければならないお貞さんの運命に一段落をつけるのも、やはり父や母の義務なんだから、彼らは岡田の好意を喜びこそすれ、けっしてそれを悪く思うはずはなかった。彼女の結婚が家中《うちじゅう》の問題になったのもつまりはそのためであった。お重はこの問題についてよくお貞さんを捕《つら》まえて離さなかった。お貞さんはまたお重には赤い顔も見せずに、いろいろの相談をしたり己《おの》れの将来をも語り合ったらしい。
 ある日自分が外から帰って来て、風呂から上ったところへ、お重が、「兄さん佐野さんていったいどんな人なの」と例の前後を顧慮しない調子で聞いた。これは自分が大阪から帰ってから、もう二度目もしくは三度目の質問であった。
「何だそんな藪《やぶ》から棒に。御前はいったい軽卒でいけないよ」
 怒りやすいお重は黙って自分の顔を見ていた。自分は胡坐《あぐら》をかきながら、三沢へやる端書《はがき》を書いてい
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