あなたにあれば、妾《あたし》にだってあるわ」
 自分は立って着物を着換え始めた。
 嫂《あによめ》は上着を引掛けてくれながら、「あなた何だか今日は勇気がないようね」と調戯《からか》い半分に云った。自分は全く勇気がなかった。
 二人は電車の出る所まで歩いて行った。あいにく近路《ちかみち》を取ったので、嫂の薄い下駄《げた》と白足袋《しろたび》が一足《ひとあし》ごとに砂の中に潜《もぐ》った。
「歩き悪《にく》いでしょう」
「ええ」と云って彼女《かのじょ》は傘《かさ》を手に持ったまま、後《うしろ》を向いて自分の後足《あとあし》を顧みた。自分は赤い靴を砂の中に埋《うず》めながら、今日の使命をどこでどう果したものだろうと考えた。考えながら歩くせいか会話は少しも機《はず》まない心持がした。
「あなた今日は珍らしく黙っていらっしゃるのね」とついに嫂から注意された。

        二十八

 自分は嫂と並んで電車に腰を掛けた。けれども大事の用を前に控えているという気が胸にあるので、どうしても機嫌《きげん》よく話はできなかった。
「なぜそんなに黙っていらっしゃるの」と彼女が聞いた。自分は宿を出てからこう云う意味の質問を彼女からすでに二度まで受けた。それを裏から見ると、二人でもっと面白く話そうじゃありませんかと云う意味も映っていた。
「あなた兄さんにそんな事を云ったことがありますか」
 自分の顔はやや真面目《まじめ》であった。嫂はちょっとそれを見て、すぐ窓の外を眺めた。そうして「好い景色ね」と云った。なるほどその時電車の走っていた所は、悪い景色ではなかったけれども、彼女のことさらにそれを眺めた事は明《あきら》かであった。自分はわざと嫂を呼んで再び前の質問を繰返した。
「なぜそんなつまらない事を聞くのよ」と云った彼女は、ほとんど一顧《いっこ》に価《あたい》しない風をした。
 電車はまた走った。自分は次の停留所へ来る前また執拗《しゅうね》く同じ問をかけて見た。
「うるさい方ね」と彼女がついに云った。「そんな事聞いて何になさるの。そりゃ夫婦ですもの、そのくらいな事云った覚《おぼえ》はあるでしょうよ。それがどうしたの」
「どうもしやしません。兄さんにもそういう親しい言葉を始終かけて上げて下さいと云うだけです」
 彼女は蒼白《あおじろ》い頬へ少し血を寄せた。その量が乏しいせいか、頬の奥の方に灯《ともしび》を点《つ》けたのが遠くから皮膚をほてらしているようであった。しかし自分はその意味を深くも考えなかった。
 和歌山へ着いた時、二人は電車を降りた。降りて始めて自分は和歌山へ始めて来た事を覚《さと》った。実はこの地を見物する口実の下《もと》に、嫂《あによめ》を連れて来たのだから、形式にもどこか見なければならなかった。
「あらあなたまだ和歌山を知らないの。それでいて妾《あたし》を連れて来るなんて、ずいぶん呑気《のんき》ね」
 嫂は心細そうに四方《あたり》を見廻した。自分も何分かきまりが悪かった。
「俥《くるま》へでも乗って車夫に好い加減な所へ連れて行って貰いましょうか。それともぶらぶら御城の方へでも歩いて行きますか」
「そうね」
 嫂は遠くの空を眺めて、近い自分には眼を注がなかった。空はここも海辺《かいへん》と同じように曇っていた。不規則に濃淡を乱した雲が幾重《いくえ》にも二人の頭の上を蔽《おお》って、日を直下《じか》に受けるよりは蒸し熱かった。その上いつ驟雨《しゅうう》が来るか解らないほどに、空の一部分がすでに黒ずんでいた。その黒ずんだ円《えん》の四方が暈《ぼか》されたように輝いて、ちょうど今我々が見捨《みす》てて来た和歌の浦の見当に、凄《すさま》じい空の一角を描き出していた。嫂は今その気味の悪い所を眉《まゆ》を寄せて眺めているらしかった。
「降るでしょうか」
 自分は固《もと》より降るに違ないと思っていた。それでとにかく俥を雇って、見るだけの所を馳《か》け抜けた方が得策だと考えた。自分は直《ただち》に俥を命じて、どこでも構わないからなるべく早く見物のできるように挽《ひ》いて廻れと命じた。車夫は要領を得たごとくまた得ないごとく、むやみに駆けた。狭い町へ出たり、例の蓮《はす》の咲いている濠《ほり》へ出たりまた狭い町へ出たりしたが、いっこうこれぞという所はなかった。最後に自分は俥の上で、こう駆けてばかりいては肝心《かんじん》の話ができないと気がついて、車夫にどこかゆっくり坐《すわ》って話のできる所へ連れて行けと差図《さしず》した。

        二十九

 車夫は心得て駆け出した。今までと違って威勢があまり好過《よす》ぎると思ううちに、二人の俥は狭い横町を曲って、突然大きな門を潜《くぐ》った。自分があわてて、車夫を呼び留めようとした時、梶棒《かじぼう》はすで
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