ら出かけようじゃありませんか。俥《くるま》もすでに誂《あつら》えてありますから」
 母は何とも云わずに自分の顔を見た。
「そりゃ行っても好いけれど、行くなら皆《みん》なでいっしょに行こうじゃないか」
 自分はその方が遥《はるか》に楽《らく》であった。でき得るならどうか母の御供をして、和歌山行をやめたいと考えた。
「じゃ僕達もいっしょにその切り開いた山道の方へ行って見ましょうか」と云いながら立ちかけた。すると嶮《けわ》しい兄の眼がすぐ自分の上に落ちた。自分はとうていこれでは約束を履行《りこう》するよりほかに道がなかろうとまた思い返した。
「そうそう姉さんと約束があったっけ」
 自分は兄に対して、つい空惚《そらとぼ》けた挨拶《あいさつ》をしなければすまなくなった。すると母が今度は苦《にが》い顔をした。
「和歌山はやめにおしよ」
 自分は母と兄の顔を見比べてどうしたものだろうと躊躇《ちゅうちょ》した。嫂《あによめ》はいつものように冷然としていた。自分が母と兄の間に迷っている間、彼女はほとんど一言《いちごん》も口にしなかった。
「直《なお》御前二郎に和歌山へ連れて行って貰うはずだったね」と兄が云った時、嫂はただ「ええ」と答えただけであった。母が「今日はお止《よ》しよ」と止《と》めた時、嫂はまた「ええ」と答えただけであった。自分が「姉さんどうします」と顧《かえり》みた時は、また「どうでも好いわ」と答えた。
 自分はちょっと用事に下へ降りた。すると母がまた後《あと》から降りて来た。彼女の様子は何だかそわそわしていた。
「御前本当に直と二人で和歌山へ行く気かい」
「ええ、だって兄さんが承知なんですもの」
「いくら承知でも御母さんが困るから御止《およ》しよ」
 母の顔のどこかには不安の色が見えた。自分はその不安の出所《でどころ》が兄にあるのか、または嫂と自分にあるか、ちょっと判断に苦しんだ。
「なぜです」と聞いた。
「なぜですって、御前と直と行くのはいけないよ」
「兄さんに悪いと云うんですか」
 自分は露骨にこう聞いて見た。
「兄さんに悪いばかりじゃないが……」
「じゃ姉さんだの僕だのに悪いと云うんですか」
 自分の問は前よりなお露骨であった。母は黙ってそこに佇《たた》ずんでいた。自分は母の表情に珍らしく猜疑《さいぎ》の影を見た。

        二十七

 自分は自分を信じ切り、また愛し切っているとばかり考えていた母の表情を見てたちまち臆した。
「では止します。元々僕の発案《ほつあん》で姉さんを誘い出すんじゃない。兄さんが二人で行って来いと云うから行くだけの事です。御母さんが御不承知ならいつでもやめます。その代り御母さんから兄さんに談判して行かないで好いようにして下さい。僕は兄さんに約束があるんだから」
 自分はこう答えて、何だかきまりが悪そうに母の前に立っていた。実は母の前を去る勇気が出なかったのである。母は少し途方に暮れた様子であった。しかししまいに思い切ったと見えて、「じゃ兄さんには妾《わたし》から話をするから、その代り御前はここに待ってておくれ、三階へ一緒に来るとまた事が面倒になるかも知れないから」と云った。
 自分は母の後影を見送りながら、事がこんな風に引絡《ひっから》まった日には、とても嫂《あによめ》を連れて和歌山などへ行く気になれない、行ったところで肝心《かんじん》の用は弁じない、どうか母の思い通りに事が変じてくれれば好いがと思った。そうして気の落ちつかない胸を抱いて、広い座敷を右左に目的もなく往ったり来たりした。
 やがて三階から兄が下りて来た。自分はその顔をちらりと見た時、これはどうしても行かなければ済まないなとすぐ読んだ。
「二郎、今になって違約して貰っちゃおれが困る。貴様だって男だろう」
 自分は時々兄から貴様と呼ばれる事があった。そうしてこの貴様が彼の口から出たときはきっと用心して後難を避けた。
「いえ行くんです。行くんですがお母さんが止せとおっしゃるから」
 自分がこう云ってるうちに、母がまた心配そうに三階から下りて来た。そうしてすぐ自分の傍《そば》へ寄って、
「二郎お母さんは先刻《さっき》ああ云ったけれども、よく一郎に聞いて見ると、何だか紀三井寺《きみいでら》で約束した事があるとか云う話だから、残念だが仕方ない。やっぱりその約束通りになさい」と云った。
「ええ」
 自分はこう答えて、あとは何にも云わない事にした。
 やがて母と兄は下に待っている俥《くるま》に乗って、楼前から右の方へ鉄輪《かなわ》の音を鳴らして去った。
「じゃ僕らもそろそろ出かけましょうかね」と嫂を顧みた時、自分は実際好い心持ではなかった。
「どうです出かける勇気がありますか」と聞いた。
「あなたは」と向《むこう》も聞いた。
「僕はあります」

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