いて、そこに挟《はさ》んであった札《さつ》を自分の手の上に乗せた。
「ではどうぞちょっと御改ためなすって」
自分は形式的にそれを勘定した上、「確《たしか》に。――どうもとんだ御手数《おてかず》をかけました。御暑いところを」と礼を述べた。実際急いだと見えてお兼さんは富士額の両脇を、細かい汗の玉でじっとりと濡《ぬ》らしていた。
「どうです、ちっと上って涼んでいらしったら」
「いいえ今日《こんにち》は急ぎますから、これで御免《ごめん》を蒙《こうむ》ります。御病人へどうぞよろしく。――でも結構でございましたね、早く御退院になれて。一時は宅でも大層心配致しまして、よく電話で御様子を伺ったとか申しておりましたが」
お兼さんはこんな愛想《あいそ》を云いながら、また例のクリーム色の洋傘《こうもり》を開いて帰って行った。
三十
自分は少し急《せ》き込んでいた。紙幣《しへい》を握ったまま段々を馳《か》け上るように三階まで来た。三沢は平生よりは落ちついていなかった。今火を点《つ》けたばかりの巻煙草《まきたばこ》をいきなり灰吹《はいふき》の中に放り込んで、ありがとうともいわずに、自分の手から金を受取った。自分は渡した金の高を注意して、「好いか」と聞いた。それでも彼はただうんと云っただけである。
彼はじっと「あの女」の室《へや》の方を見つめた。時間の具合で、見舞に来たものの草履《ぞうり》は一足も廊下の端《はじ》に脱ぎ棄《す》ててなかった。平生から静過ぎる室の中は、ことに寂寞としていた。例の美くしい看護婦は相変らず角の柱に倚《よ》りかかって、産婆学の本か何か読んでいた。
「あの女は寝ているのかしら」
彼は「あの女」の室《へや》へ入るべき好機会を見出しながら、かえってその眠を妨《さまた》げるのを恐れるように見えた。
「寝ているかも知れない」と自分も思った。
しばらくして三沢は小さな声で「あの看護婦に都合を聞いて貰おうか」と云い出した。彼はまだこの看護婦に口を利《き》いた事がないというので、自分がその役を引受けなければならなかった。
看護婦は驚いたようなまたおかしいような顔をして自分を見た。けれどもすぐ自分の真面目な態度を認めて、室の中へ入って行った。かと思うと、二分と経《た》たないうちに笑いながらまた出て来た。そうして今ちょうど気分の好いところだからお目にかかれ
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