た。
「ここの払と東京へ帰る旅費ぐらいはどうかこうか持っているんだ。それだけなら何も君を煩《わずら》わす必要はない」
 彼は大した物持《ものもち》の家に生れた果報者でもなかったけれども、自分が一人息子だけに、こういう点にかけると、自分達よりよほど自由が利《き》いた。その上母や親類のものから京都で買物を頼まれたのを、新しい道伴《みちづれ》ができたためつい大阪まで乗り越して、いまだに手を着けない金が余っていたのである。
「じゃただ用心のために持って行こうと云うんだね」
「いや」と彼は急に云った。
「じゃどうするんだ」と自分は問いつめた。
「どうしても僕の勝手だ。ただ借りてくれさえすれば好いんだ」
 自分はまた腹が立った。彼は自分をまるで他人扱いにしているのである。自分は憤《むっ》として黙っていた。
「怒っちゃいけない」と彼が云った。「隠すんじゃない、君に関係のない事を、わざと吹聴《ふいちょう》するように見えるのが厭だから、知らせずにおこうと思っただけだから」
 自分はまだ黙っていた。彼は寝ながら自分の顔を見上げていた。
「そんなら話すがね」と彼が云い出した。
「僕はまだあの女を見舞ってやらない。向《むこう》でもそんな事は待ち受けてやしないだろうし、僕も必ず見舞に行かなければならないほどの義理はない。が、僕は何だかあの女の病気を危険にした本人だという自覚がどうしても退《の》かない。それでどっちが先へ退院するにしても、その間際《まぎわ》に一度会っておきたいと始終《しじゅう》思っていた。見舞じゃない、詫《あや》まるためにだよ。気の毒な事をしたと一口詫まればそれで好いんだ。けれどもただ詫まる訳にも行かないから、それで君に頼んで見たのだ。しかし君の方の都合が悪ければ強いてそうして貰わないでもどうかなるだろう。宅《うち》へ電報でもかけたら」

        二十九

 自分は行《ゆき》がかり上《じょう》一応岡田に当って見る必要があった。宅《うち》へ電報を打つという三沢をちょっと待たして、ふらりと病院の門を出た。岡田の勤めている会社は、三沢の室《へや》とは反対の方向にあるので、彼の窓から眺《なが》める訳には行かないけれども、道程《みちのり》からいうといくらもなかった。それでも暑いので歩いて行くうちに汗が背中を濡《ぬ》らすほど出た。
 彼は自分の顔を見るや否や、さも久しぶりに会った人
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