。私の鈍《のろ》いせいでもあったでしょうが、子供の時ですら親に打たれた覚えはありません。成人しては無論の事です。生れて始めて手を顔に加えられた私はその時われ知らずむっとしました。
「何をするんだ」
「それ見ろ」
私にはこの「それ見ろ」が解らなかったのです。
「乱暴じゃないか」と私が云いました。
「それ見ろ。少しも神に信頼していないじゃないか。やっぱり怒るじゃないか。ちょっとした事で気分の平均を失うじゃないか。落ちつきが顛覆《てんぷく》するじゃないか」
私は何とも答えませんでした。また何とも答えられませんでした。そのうちに兄さんはつと座を立ちました。私の耳にはどんどん階子段《はしごだん》を馳《か》け下りて行く兄さんの足音だけが残りました。
四十二
私は下女を呼んで伴《つれ》の御客さんはどうしたと聞いて見ました。
「今しがた表へ御出になりました。おおかた浜でしょう」
下女の返事が私の想像と一致したので、私はそれ以上の掛念《けねん》を省《はぶ》いて、ごろりとそこに横になりました。すると衣桁《いこう》の端《はじ》にかかっている兄さんの夏帽子がすぐ眼に着きました。兄さんはこの暑いのに帽子も被《かぶ》らずにどこかへ飛び出して行ったのです。あなたのように、兄さんの一挙一動を心配する人から見たら、仰向《あおむ》けに寝そべったその時の私の姿は、少し呑気《のんき》過ぎたかも知れません。これは固《もと》より私の鈍《のろ》い神経の仕業《しわざ》に違ないのです。けれどもただ鈍いだけで説明する以外に、もう少し御参考になる点も交っているようですから、それをちょっと申上げます。
私は兄さんの頭を信じていました。私よりも鋭敏な兄さんの理解力に尊敬を払っていました。兄さんは時々普通の人に解らないような事を出し抜けに云います。それが知らないものの耳や、教育の乏しい男の耳には、どこかに破目《われめ》の入った鐘の音《ね》として、変に響くでしょうけれども、よく兄さんを心得た私には、かえって習慣的な言説よりはありがたかったのです。私は平生からそこに兄さんの特色を認めていました。だから心配の必要はないと、あれほど強くあなたに断言して憚《はばか》らなかったのです。それでいっしょに旅に出ました。旅へ出てからの兄さんは今まで私が叙述して来た通りですが、私はこの旅行先の兄さんのために、少しず
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