ら。
 無論我々二人は朝から晩までのべつに喋舌《しゃべ》り続けている訳ではありません。御互が勝手な書物を手にしている時もあります、黙って寝転《ねころ》んでいる事もあります。しかし現にその人のいる前で、その人の事を知らん顔で書いて、そうしてそれをそっと他《ひと》に知らせるのはちょっと私にとってはでき悪《にく》いのです。書くべき必要を認め出した私も、これには弱りました。いくら書く機会を見つけよう見つけようと思っても、そんな機会の出て来るはずがないのですから。しかし偶然はついに私の手を導いて、私に私の必要と認める仕事をさせるようにしてくれました。私はそれほど兄さんに気兼《きがね》をせずに、この手紙を書き初めました。そうして同じ状態の下《もと》に、それを書き終る事を希望します。

        二十九

 我々は二三日前からこの紅《べに》が谷《やつ》の奥に来て、疲れた身体《からだ》を谷と谷の間に放り出しました。いる所は私の親戚のもっている小さい別荘です。所有主は八月にならないと東京を離れる事がむずかしいので、その前ならいつでも君方に用立《ようだ》てて宜《よろ》しいと云った言葉を、はからず旅行中に利用する訳になったのであります。
 別荘というと大変|人聞《ひとぎき》が好いようですが、その実ははなはだ見苦しい手狭《てぜま》なもので、構えからいうと、ちょうど東京の場末にある四五十円の安官吏[#「吏」は底本では「史」]の住居《すまい》です。しかし田舎《いなか》だけに邸内の地面には多少の余裕があります。庭だか菜園だか分らないものが、軒から爪下《つまさが》りに向うの垣根まで続いています。その垣には珊瑚樹《さんごじゅ》の実が一面に結《な》っていて、葉越に隣の藁屋根《わらやね》が四半分ほど見えます。
 同じ軒の下から谷を隔てて向うの山も手に取るように見えます。この山全体がある伯爵の別荘地で、時には浴衣《ゆかた》の色が樹《こ》の間《ま》から見えたり、女の声が崖《がけ》の上で響いたりします。その崖の頂《いただき》には高い松が空を突くように聳《そび》えています。我々は低い軒の下から朝夕《あさゆう》この松を見上るのを、高尚な課業のように心得て暮しています。
 今まで通って来たうちで、君の兄さんにはここが一番気に入ったようです。それにはいろいろな意味があるかも知れませんが、二人ぎりで独立した一軒の
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