重要な問題になって来た。自分はなまじい遠くから女の匂《にお》いを嗅《か》いだ反動として、かえってじじむさくなった。事務所の往復に、ざらざらした頬を撫《な》でて見て、手もなく電車に乗った貉《むじな》のようなものだと悲観したりした。
 一週間ほど経《た》って母から電話がかかった。彼女は電話口へ出て、昨日《きのう》Hさんが遊びに来た事を告げた。嫂《あによめ》が風邪気《かぜけ》なので、彼女が代理として饗応《もてなし》の席に出たら、Hさんが兄といっしょに旅行する話を始めたと告げた。彼女は喜ばしそうな調子で、自分に礼を述べた。父からも宜《よろ》しくとの事であった。自分は「いい案排《あんばい》でした」と答えた。
 自分はその晩いろいろ考えた。自分は旅行が兄のために有利であると認めたから、Hさんを煩《わずら》わして、これだけの手続を運んだのであるが、真底《しんてい》を自白すると、自分の最も苦《く》に病《や》んでいるのは、兄の自分に対する思わくであった。彼は自分をどう見ているだろうか。どのくらいの程度に自分を憎んでいるだろう、また疑《うたぐ》っているだろう。そこが一番知りたかった。したがって自分の気になるのは未来の兄であると同時に現在の兄であった。久しく彼と会見の路《みち》を絶たれた自分は、その現在の兄に関する直接の知識をほとんどもたなかった。

        二十二

 自分は旅行に出る前のHさんに一応会っておく必要を感じた。こっちで頼んだ事を順に運んでくれた好意に対して、礼を云わなければすまない義理も控えていた。
 自分は事務所の帰りがけにまた彼の玄関に立って名刺を出した。取次が奥へ這入《はい》ったかと思うと、彼は例のむくむくした丸い体躯《からだ》を、自分の前に運んで来た。
「実は今あしたの講義で苦しんでいるところなんですがね。もし急用でなければ、今日は御免《ごめん》を蒙《こうむ》りたい」
 学者の生活に気のつかなかった自分は、Hさんのこの言葉で、急に兄の日常を想《おも》い起した。彼らの書斎に立籠《たてこも》るのは、必ずしも家庭や社会に対する謀反《むほん》とも限らなかった。自分はHさんに都合の好い日を聞いて、また出直す事にした。
「じゃ御気の毒だが、そうして下さい。なるべく早く講義を切り上げて、兄さんといっしょに旅行しようと云う訳なんだからね」
 自分はHさんの前に丁寧《ていね
前へ 次へ
全260ページ中212ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング