いた。けれどもすでに這入っている蚊はそのままなので、横になるや否や、時々額や鼻の頭の辺《あたり》でぶうんと云う小《ちいさ》い音がした。それでもうとうとと寝た。すると今度は右の方の部屋でする話声で眼が覚《さ》めた。聞いているとやはり男と女の声であった。自分はこっち側《がわ》に客は一人もいないつもりでいたので、ちょっと驚かされた。しかし女が繰返《くりかえ》して、「そんならもう帰して貰いますぜ」というような言葉を二三度用いたので、隣の客が女に送られて茶屋からでも帰って来たのだろうと推察してまた眠りに落ちた。
 それからもう一度下女が雨戸を引く音に夢を破られて、最後に起き上ったのが、まだ川の面《おもて》に白い靄《もや》が薄く見える頃だったから、正味《しょうみ》寝たのは何時間にもならなかった。

        十五

 三沢の氷嚢《ひょうのう》は依然としてその日も胃の上に在《あ》った。
「まだ氷で冷やしているのか」
 自分はいささか案外な顔をしてこう聞いた。三沢にはそれが友達|甲斐《がい》もなく響いたのだろう。
「鼻風邪《はなかぜ》じゃあるまいし」と云った。
 自分は看護婦の方を向いて、「昨夕《ゆうべ》は御苦労さま」と一口礼を述べた。看護婦は色の蒼《あお》い膨《ふく》れた女であった。顔つきが絵にかいた座頭に好く似ているせいか、普通彼らの着る白い着物がちっとも似合わなかった。岡山のもので、小さい時|膿毒性《のうどくしょう》とかで右の眼を悪くしたんだと、こっちで尋ねもしない事を話した。なるほどこの女の一方の眼には白い雲がいっぱいにかかっていた。
「看護婦さん、こんな病人に優しくしてやると何を云い出すか分らないから、好加減《いいかげん》にしておくがいいよ」
 自分は面白半分わざと軽薄な露骨《ろこつ》を云って、看護婦を苦笑《くしょう》させた。すると三沢が突然「おい氷だ」と氷嚢を持ち上げた。
 廊下の先で氷を割る音がした時、三沢はまた「おい」と云って自分を呼んだ。
「君には解るまいが、この病気を押していると、きっと潰瘍《かいよう》になるんだ。それが危険だから僕はこうじっとして氷嚢を載《の》せているんだ。ここへ入院したのも、医者が勧めたのでも、宿で周旋して貰ったのでもない。ただ僕自身が必要と認めて自分で入ったのだ。酔興じゃないんだ」
 自分は三沢の医学上の智識について、それほど信を置き
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