すると三沢は怒った。
「君は一杯の氷菓子を消化するのに、どのくらい強壮な胃が必要だと思うのか」と真面目《まじめ》な顔をして議論を仕かけた。自分は実のところ何にも知らないのである。看護婦は、よかろうけれども念のためだからと云って、わざわざ医局へ聞きに行った。そうして少量なら差支《さしつかえ》ないという許可を得て来た。
 自分は便所に行くとき三沢に知れないように看護婦を呼んで、あの人の病気は全体何というんだと聞いて見た。看護婦はおおかた胃が悪いんだろうと答えた。それより以上の事を尋ねると、今朝看護婦会から派出されたばかりで、何もまだ分らないんだと云って平気でいた。仕方なしに下へ降りて医員に尋ねたら、その男もまだ三沢の名を知らなかった。けれども患者の病名だの処方だのを書いた紙箋《しせん》を繰って、胃が少し糜爛《ただ》れたんだという事だけ教えてくれた。
 自分はまた三沢の傍《そば》へ行った。彼は氷嚢を胃の上に載せたまま、「君その窓から外を見てみろ」、と云った。窓は正面に二つ側面に一つあったけれども、いずれも西洋式で普通より高い上に、病人は日本の蒲団《ふとん》を敷いて寝ているんだから、彼の眼には強い色の空と、電信線の一部分が筋違《すじかい》に見えるだけであった。
 自分は窓側《まどぎわ》に手を突いて、外を見下《みおろ》した。すると何よりもまず高い煙突から出る遠い煙が眼に入《い》った。その煙は市全体を掩《おお》うように大きな建物の上を這《は》い廻っていた。
「河が見えるだろう」と三沢が云った。
 大きな河が左手の方に少し見えた。
「山も見えるだろう」と三沢がまた云った。
 山は正面にさっきから見えていた。
 それが暗《くら》がり峠《とうげ》で、昔は多分大きな木ばかり生えていたのだろうが、今はあの通り明るい峠に変化したんだとか、もう少しするとあの山の下を突《つ》き貫《ぬ》いて、奈良へ電車が通うようになるんだとか、三沢は今誰かから聞いたばかりの事を元気よく語った。自分はこれなら大した心配もないだろうと思って病院を出た。

        十四

 自分は別に行く所もなかったので、三沢の泊った宿の名を聞いて、そこへ俥《くるま》で乗りつけた。看護婦はつい近くのように云ったが、始めての自分にはかなりの道程《みちのり》と思われた。
 その宿には玄関も何にもなかった。這入《はい》ってもいらっ
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