《まゆ》と眼の光とを認めた。
 自分は家を出てから、まだ一遍しか家《うち》へ行かなかった。その折そっと母を小蔭《こかげ》に呼んで、兄の様子を聞いて見たら「近頃は少し好いようだよ。時々裏へ出て芳江をブランコに載せて、押してやったりしているからね。……」
 自分はそれで少しは安心した。それぎり宅《うち》の誰とも顔を合わせる機会を拵《こしら》えずに今日《こんにち》まで過ぎたのである。
 昼の時間に一品料理を取寄せて食っていると、B先生(事務所の持主)がまた突然「君はたしか下宿したんだったね」と聞いた。自分はただ簡単に「ええ」と答えておいた。
「なぜ。家の方が広くって便利だろうじゃないか。それとも何か面倒な事でもあるのかい」
 自分はぐずついてすこぶる曖昧《あいまい》な挨拶《あいさつ》をした。その時|呑《の》み込んだ麺麭《パン》の一片《いっぺん》が、いかにも水気がないように、ぱさぱさと感ぜられた。
「しかし一人の方がかえって気楽かも知れないね。大勢ごたごたしているよりも。――時に君はまだ独身だろう、どうだ早く細君でももっちゃ」
 自分はB先生のこの言葉に対しても、平生の通り気楽な答ができなかった。先生は「今日は君いやに意気銷沈《いきしょうちん》しているね」と云ったぎり話頭を転じて、他《ほか》のものと愚にもつかない馬鹿話を始め出した。自分は自分の前にある茶碗の中に立っている茶柱を、何かの前徴のごとく見つめたぎり、左右に起る笑い声を聞くともなく、また聞かぬでもなく、黙然《もくねん》と腰をかけていた。そうして心の裡《うち》で、自分こそ近頃神経過敏症に罹《かか》っているのではなかろうかと不愉快な心配をした。自分は下宿にいてあまり孤独なため、こう頭に変調を起したのだと思いついて、帰ったら久しぶりに三沢の所へでも話に行こうと決心した。

        三十

 その晩三沢の二階に案内された自分は、気楽そうに胡坐《あぐら》をかいた彼の姿を見て羨《うらや》ましい心持がした。彼の室《へや》は明るい電灯と、暖かい火鉢《ひばち》で、初冬《はつふゆ》の寒さから全然隔離されているように見えた。自分は彼の痼疾《こしつ》が秋風の吹き募《つの》るに従って、漸々《ぜんぜん》好い方へ向いて来た事を、かねてから彼の色にも姿にも知った。けれども今の自分と比較して、彼がこうゆったり構えていようとは思えなかった。高
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